小学校で英語を教えるなんて止めてしまえ、という話・その2
~「英語は国際性に不可欠」ではない~
先週の続き。
さて、お役人も御用学者もジャーナリズムも、いつまでたっても英語に堪能な者が「グローバルな人材」だと言い続けているようにお見受けする。
しかし、英語だけしゃべれても仕方ないのではないのか。
How to speak ではなく What to speak だろう。語るべき何か、伝えるべき何かを持っていれば言葉などは通訳を介すればよい。日本文化を発信したいのなら、まず身につけるべきは英語ではなく文化そのものなのだ。
織物というのはまず縦糸を決めてから横糸を織り込んでいくのだそうである。テニスのラケットのガットも縦を張ってから横を張るという。
つまり、最初に縦の線をきちっと決めることが基本であると。
文化は縦糸である。
先祖の時代から続いて来た縦糸としての文化をしっかりと張って鍛えねばならない。その上で、各時代に応じた対応をする、つまり横糸を織り込んでいく。
われわれが畳の上で生活するのは縦糸だが、洋服を着るのは横糸である。
小学校から英語をやらせるというのは、母国語という重要な縦糸を切ることになるのである。
だいたい、今、世界で人気の日本の漫画だが、漫画家で英語の達者な人が英語で作品を発表してるなんて、ないでしょ。
それどころか、私はバスの中で外国人女性が『あさきゆめみし』を原書で、つまり日本語で読んでいるのを見たことがある。驚愕だった。
日本の国際化というのは英語の出来る日本人が増えることではなく、日本語の出来る外国人が増えることである。
漫画だって英語に媚びていないのが評価されているではないか。永井豪の『デビルマン』なんて八カ国語ぐらいに訳されているらしい。しかもこの漫画の主人公・不動明の名前は間違いなく不動明王から取っている。まさに伝統に根ざしているではないか。
『子連れ狼』も、この影響を受けて子連れのガンマンを主人公とする西部劇が作られたという。
世界に認知された作品を描いた漫画家は英語が出来たのか?
そんなことはない。みんな日本語と自分のアイデアで勝負しているのである。
さらに、意外とみんな無視しているが、外国人だからといって必ず英語が出来るわけではない、という事実を如何する?
先だっても、ある旅館で予約をしていたアジア系のお客さんと少しトラブルがあった。
旅館には英語の出来る人がいたのだが、お客さんのほうが英語も日本語も分からなかったのである。
こういう行き違いって、ちょこちょこあるそうな。
気をつけよう。いわゆる発展途上国といわれる国々で経済成長の恩恵が庶民にまで広がり、多くの観光者が流れ出てきたとき、英語の分からない人なんて、いっぱいいる。そのときになって英語一辺倒を後悔しても遅いのである。
ときとして、アジア諸国で普通の人が観光者に英語で対応しているとか、英語圏以外の西洋では子供でも英語が出来るとかに感心する人がいる。
ところが、これは感心する必要などないのである。むしろ、お気の毒かもしれない。
途上国で英語(地域によってはフランス語とかスペイン語場合もあるが)に堪能な人たちがいるのは、かつて植民地だったからである。欧米人はそこに行って「英語でおもてなしを受けて嬉しいな~」なんて思わない。自分たちが与えた英語教育が実を結んでいるのを見て満足するのだ。
さらに、かつての植民地諸国が自国語だけで教育をしたいと思っても、内容が高度になるほど専門書の翻訳がないのである。出したくても市場が小さいので引き合わないだろう。
するとどうしても英語の原書や英訳本に頼らざるを得なくなる。
英語教育でグローバルな人材を育成しているのではない。英語でしか教えられない切実な現実があるのである。
英語圏以外の西洋諸国も同様だ。翻訳文化が弱いため、専門書は英語の原書や英訳本に頼らざるを得ない。
それに比べたら日本はどうですか。世界中の古典や学術書が日本語で出てますよ。英語なんか覚えなくても、日本人でありさえすれば世界の文学に親しむことが出来るし、やる気さえあれば歴史でも哲学でも、自分で名著を読めるのである。
こんな凄い国なんて、中々ないぞ。
どこぞの途上国へ旅行に行って、カフェかどこかで高校生ぐらいのバイトの子が上手な英語で対応してくれたことに喜び、「それにひきかえニッポンは……」というニュアンスで体験を語る皆様、喜んでる場合と違いまっせ。
そんなことで喜んではアカンのです。
ではどうすれば? というのは来週に続く。
【言っておきたい古都がある・70】