安くて旨い店探して街歩き 衣棚通六角~三条を行く。
バス停が綺麗になっている。今更の感もあるが、交通局は駅ナカスイートで稼いだのか・・・?
どこの町でも見かけそうなデザインだが、すっきりしている。これで雨宿りができるな・・・。
画廊のショーウインドーには、雛飾りの作品がだされていた。
六角通を西へ、何につけても出来るだけ烏丸通沿いは避けている。お高い上に混んでいるからだ。
歯医者もそんな気がする。歯石予防の定期検査の日なので大路を外したところへ立ち寄ることにした。
ビルの敷地内にこんな駒札が建っていた。廣野了頓邸跡(ひろのりょうとんていあと)の駒札は他でも見覚えがあった。「京料理藤本」の近くだったように記憶している。読みづらいのでタイプしてみた。
廣野了頓邸跡(ひろのりょうとんていあと)
将軍御成門跡(しょうぐんおなりもんあと)
この一帯には安土桃山時代の茶人廣野了頓の邸宅があったといわれる。廣野家は足利家代々の従臣で、将軍義輝の時にこの地を領有した。
市井人となった了頓が、ここに茶亭を構え茶道を広め、豊臣秀吉もしばしば訪れたという。また、山科言経(やましなときつね)の日記、「言経卿記」にも文禄3年(1594年)5月11日に徳川家康がここを
訪れ、言経、古田織部らも同席して茶の湯を楽しんだ様子が記されている。明治維新前までは、六角通に面して表門があり、裏門まで一般の南北通り抜けを許したため、了頓辻子と呼ばれる小路が成立した。六角通面の町が玉蔵町(たまくらちょう)で あるため、玉蔵辻子とも称されたこの路は、夜間には通行を禁じ、表門を将軍御成門と呼んだといわれる。
京都市
衣棚通を六角通に向いて眺めてみると・・・・・露地のような小路である。
ゆっくりと歩いた。両脇に飲食店などを商うところがこんなにもあった。
茶人廣野了頓邸跡は、石碑・駒札を残すだけで何の跡形もない。
六角通の表門を将軍御成門と呼び、了頓辻子・玉蔵辻子と呼ばれ、
時代は流れ、新たな情報の発信基地がここに。
1984年以来発行してきましたタウン情報誌「京都CF!(旧ClubFame)」を弊社
サイト(http://kyotocf.com/)において、PDFデータでの全面公開を開始しま
す。
今回、過去25年間に発行された309冊の3,917記事から1,198記事のPDFファイル
を無料公開しました。
ClubFame、京都CF!の発行期間は、昭和のサブカルチャー、タウンメディアの
勃興期にはじまり、バブル期を経て、平成の若者文化の成熟期に至る期間で、
正に時代を反映して先取的といわれた京都の街場文化を映し出しています。そ
の変遷が見渡せるのは結構楽しめます。
たとえば、千原兄弟が駆け出しのころを続けざまに追いかけた1994年10月号
「単独インタビュー」、12月号「若手爆笑街道を探る」を今見るから余計に面
白いと思います。
読者のリクエストがあればその記事を優先して閲覧できるようにする計画です
ので未公開で興味深いものを探してみてください。
京都好きなお友達にもぜひ教えてあげてください