新京極ぶらぶら歩き
〜こんな所にこんなものがある〜
今は修学旅行生などで賑わう新京極。そこに「観光客を連れて行く」と言えば「買い物ですか」と返されるのだが、「いえいえ、観光です」と答えると不可解な顔をする人がいる。
果たして新京極にはどのような見所があるのか。
恐らく、普通に歩いていたのでは誰も気づかないのかもしれない。観光案内人たるもの、気づかせてさしあげよう。
探せばあるものだな。
①たらたら坂
三条通から新京極通に入るところが、高低差1メートルほどの坂になっていて、「たらたら坂」という。すぐ西の寺町通にも坂はないのに、ここだけあるという。
天正18年(1590)豊臣秀吉が増田長盛に命じて三条大橋を作らせた際、橋梁を高くしてこの橋に至る三条通を堤にした名残という。
ただ、「たらたら」と言うと「緩やか」というイメージになるが、実際は結構ちゃんとした坂に思える。
それと、寺町どおりのほうも分りにくいが道は傾斜しているようだ。こっちの方が「たらたら坂」というのに相応しいように思える。
②未開紅(長仙院)
誓願寺の裏手にある長仙院の春日大明神の前にある梅をいう。蕾の間は紅色なのに、蕾が開くと白い花が咲く「未開紅」という珍しい梅。
なるほど。これは不思議。西陣の雨宝院には緑色の花を咲かせる「御衣黄」という桜があるが、それに匹敵するかもしれない。
ただし、残念ながらここは非公開寺院である。
③迷子道しるべ(誓願寺)
誓願寺は浄土宗西山深草派の総本山。本尊の阿弥陀如来は京洛六阿弥陀の一つ。「迷子道しるべ」は新京極通に面した山門の左手前にある。
高さ2.6メートル幅40センチメートルの大きな石標で、正面に「迷子道し留偏」、右側に「おしゆる方」、左側に「たずぬる方」と彫ってある。新京極が京都最大の歓楽街になって迷子が続出したため、明治15年に建立された。人の縁を取り持つ月下氷人になぞらえて「月下氷人石」ともいわれる。ちなみにこうした月下氷人石は、八坂神社と北野天満宮にもある由。
明治15年だから比較的新しい。要するに迷子のお知らせだが、昔のお寺はこのような機能も果たしていたのだ。
恐らくこの道しるべも、現代人から見たら「何だろう」と思って「不思議」になるのかもしれないが、出来た当時は不思議でもなんでもない、ごく当たり前の標識だったわけである。
歳月を経ることによって「当たり前」のものが「不思議」になってしまうこともあるのだな。
しかしながら、現在では隣に建物が建っているため、左の「たずぬる方」は見えない。迷子を探す皆さん、残念でした。尋ねることは出来ないようで。
さて、あんなガシャガシャした場所に見所があるのか、と言われそうな新京極。まだあります。
④扇塚(誓願寺)
世阿弥作と伝えられる謡曲『誓願寺』は、熊野参詣で御札を全国に広めよという霊告を受けた一遍上人が、布教のため誓願寺にやってきて歌舞の菩薩となって現れた和泉式部に念仏の尊さを説く物語。
歌舞には扇が欠かせないことから、境内に扇塚が作られたもの。
また、江戸時代初期に誓願寺第五十五世安楽庵策伝上人が『醒睡笑』を著して落語の祖として仰がれていることも「扇子」との結びつきが窺われる。
能と落語の共通点は扇だった。
⑤和泉式部墓(誠心院)
和泉式部(生没年不詳)は平安中期のすぐれた抒情歌人。「和泉式部集」や「和泉式部日記」を残す。
誠心院は真言宗の寺で、藤原道長が法成寺東北院内の小御堂を和泉式部に与えたのに始まる。本尊の阿弥陀如来は、式部が仕えた上東門院藤原彰子(988〜1074道長の長女。一条天皇中宮)の賜物と伝わる。寺名は式部の法名、「誠心院智貞法尼」にちなむ。入り口を入れば墓地の前に和泉式部の墓と伝える正和二年(1313年)の銘のある巨大な石造宝篋印塔(高さ3.4メートル)がある。
和泉式部の法名が寺の名前の由来なら、式部の墓がこの寺にあっても不思議ではない。
⑥軒端の梅(誠心院)
同じく誠心院本堂の左手前にある小振りの梅の古木をいう。
『雍州府志』(1686)に「和泉式部の墓あり。其の前の梅の樹、軒端の梅と称す」とある。和泉式部が生前愛した「軒端の梅」にちなんで、後に植えられたものである。傍らに和泉式部の小さな歌碑がある。
この梅の木に何か変わった特徴があれば面白いのだが、無いみたいである。
⑦寅薬師(西光寺)
西光寺は浄土宗西山深草派で、本尊は阿弥陀如来像。その傍らに安置されている薬師如来像が寅薬師と称されているので、寺の通称名ともなっている。
寺伝によると、この薬師如来は弘法大師。寅の日、寅の刻に成就したので寅薬師との異名がある。もともと宮中にあったのを弘安五年(1282)、勅により下賜されものという(『京都坊目誌』)。また、寅年生まれの人の守護仏として崇敬されている。
なるほど、いわれは分ったが、浄土宗の寺にある薬師如来が何で弘法大師なのか?
流石は日本。宗教に関しては何でもありだ。
しかし、摩利支天の猪、八坂庚申堂の猿、ここの虎、とくれば、他の十二支も捜さねばならないな。
ちなみに、この寅薬師は本堂横のベルを鳴らして申し込めば拝観できる。拝観料は決まっていないが、お気持ちだけを包んでいくのが良いだろう。
⑧蛸薬師堂(永福寺)
永福寺は浄土宗西山深草派で、本尊は石造薬師如来像。この本尊を世に蛸薬師という。名薬師の一つで、薬師十二所参りの一つで知られている。
蛸には毛がないので、髪の毛が薄かったり縮れ毛の女が蛸の絵馬を奉納すると、髪が豊かになったり、縮れ毛が治るという信仰がある。
はえぎわの後退が気になるみなさん、行けば如何か?
蛸薬師の名のいわれについては諸説がある。
『京童』(1658)・『出来斎京土産』(1677)・『京師巡覧集』(1679)の説。
蛸屋という家の隅にある唐臼(からうす)の壺から夜な夜な光がさすので、不思議に思い掘ってみると、その石に薬師の御かたちがあった。蛸屋の薬師さまということで、蛸薬師になった。
『山州名跡志』(1702)の説。
二条に裕福な商人がいた。病を得て、比叡山の根本中堂の薬師仏に詣でることが不可能になったので、代わりに従者を毎日参詣させていた。ある時、本尊薬師仏から、北谷の山中に埋れている薬師仏の石像を掘って拝むとよいという夢のお告げがあった。それで埋れていた石像を掘り出して毎日拝むと、忽ち病が治ったという。
『京童』・『出来斎京土産』・『山州名跡志』の異説。
比叡山の僧が老母を寺で養っていたところ、老母が重病になった。老母は蛸が好きだったのでそれを求めたが、魚肉を寺門に入れることは禁じられている。僧は、重病の母に孝養を尽くすのがなぜ悪いと思って、蛸を寺門に持ち込もうとしたところ、薬師如来が現れて蛸を経の巻物に変えてくれた。そのおかげで、老母に蛸を食させたところ、病を癒せることができた。この薬師を安置しているので、蛸薬師という。
『都名所図会』(1780)の説。
本尊薬師を池中の島に安置したので、世に水上薬師と呼ばれた。また澤薬師(たくやくし)と称したが、後に誤って蛸薬師というようになった。
「澤」というのは「さわ」で、すなわち「水けがたくさんある」ということ。故に「水上薬師=澤薬師」というのは自然である。そこから転化というのは最も自然である。
これらの中では「病気のお母さんに蛸を食べさせたくて……」というのが一番有名。
ただ、少し補足の必要がある。この僧は蛸を持ち込もうとしたのを咎められ、「中は経文だ」と言いつくろった。それでも他の僧たちが無理矢理に開けてみると、中に入っていた蛸が経文に変わっていた。母を思う僧の気持ちを汲んで薬師如来が蛸を経文に変えたのだった。
それにしても、一番新しい出版物である『都名所図絵』が一番合理的な説明をしているが何ともいえない。現代のわれわれのほうが非合理な部分をたくさん持っているかもしれないぞ。ただ、事実というのは面白みに欠けるのだが。。。
ちなみに、落語では「蛸を串に刺して焼いたから」というのがあった。
⑨鯉地蔵(永福寺)
永福寺の入口を入って右手の厨子に安置されているのが鯉地蔵。長80センチぐらいでやや小ぶりな地蔵である。
このいわれというのが、足利義政の家来が使いに出されたとき、状箱を川に落としてしまった。この家来は以前からここの地蔵尊を信仰していたので、一心不乱に「何とかして下さい」と拝むと、この地蔵尊が鯉に変身して川に飛び込み、状箱を持って帰ってきたという。
これは「いかにも」という由来である。こんなのが嬉しい。
これは今でも自由にお参りできるが、残念なことに写真は撮らせてもらえなかった。
⑩逆蓮華(さかれんげ)の阿弥陀如来(安養寺)
安養寺は浄土宗西山禅林寺派の寺で、俗に倒蓮華寺(さかれんげじ)という。本尊の阿弥陀如来の蓮台が逆さになっていることにちなむ。
寺伝では、本尊造立に際し台座が三度も壊れたため、蓮弁を逆さにしたところ完成したという。
また、女人は業深く、心中にある蓮華が逆さになっているため往生できないといい、こうした女人を救うために蓮弁を逆さにつけたともいう。
うん。蓮台が逆さまというのも七不思議的でよいな。
しかし実際はデザイン的に安定が悪かっただけでは? あるいは最初に作ったやつがヘタクソだったとか。
⑪くさがみさん(善長寺)
善長寺は浄土宗西山禅林寺派に属する寺院で永正年間に忍想上人が建立。本尊の立江地蔵菩薩像は、阿波国(徳島県)立江寺(四国八十八箇所第十九番札所)に安置されている地蔵菩薩像を模刻したものと伝える。
別名をくさがみ(疱神)さんといい、疱瘡(天然痘)が流行った江戸時代には、疱瘡よけのご利益があるとして信仰を集めた。
「くさ」といっても今では死語だろう。疱瘡だけではなく、おできとか子供に出来る皮膚病を総称して「くさ」と言った。昔は栄養状態が悪かったので結構一般的だったかもしれないが、いつの間にかなくなったようだ。わが国もそれほど栄養状態や衛生状態が良くなったということで、このような信仰が自然に消えていくのは社会的には良いことなのかもしれない。文化的には寂しくもありますが。
新京極という「伝統」とは少し距離のある地域でも、中々文化的なネタをを提供してくれのが良く分るのだが、次はちょっと変り種。
⑫隣に食い込んだ鳥居(錦天満宮)
社伝によると錦天満宮(祭神菅原道真)は、長保年間(999−1004)歓喜寺の鎮守として創建。豊臣秀吉が現在地の錦小路東端に移したのが社名になる。ここの石の明神鳥居は、新京極通から錦小路に入ってすぐにあるが、笠木・島木と貫(ぬき)が両側の建物に突き刺さっているように見える。
いちおう出典に敬意を表して「両側の建物に突き刺さっているように見える」としておいたが、これは間違い。「突き刺さっているように見える」のではない。突き刺さっているのである。
この鳥居についてはこの連載の3回目「異形の鳥居」でも紹介した。そちらを参照していただければ幸いである。
⑬神になった源融(錦天満宮)
錦天満宮の境内摂社・塩竃神社の祭神は、源氏物語の主人公光源氏のモデルともいわれる源融(嵯峨天皇皇子)。源融の邸宅六条河原院跡地に歓喜光寺が創建された際、その鎮守として天満大自在天神とともに祀られた。栄耀栄華を尽くして往生した人物が祭神なのが珍しい。
そう、普通は非業の死を遂げた人とかが祀られる。でも、「明治神宮」とかもあるから、それでいいのかも。
しかし、「融神社」ではなく「塩竃神社」というのが何ともいえない。
⑭奴彌(ぬね)鳥居(錦天満宮)
錦天満宮の境内摂社日之出稲荷神社にある鳥居。額束の両側に合掌状の破風扠首束(はふさすつか)をはめた特異な形状で、同種の鳥居は伏見稲荷大社の二ノ峰と三ノ峰の間にある荷田社しかない珍しいもの。
昭和の初めに錦天満宮の宮司の発案でできた。
要するに伏見稲荷の真似なのだが。日本で二つというのが凄い。
⑮裸の地蔵菩薩(染殿地蔵)
染殿地蔵は、時宗・染殿院の俗称。本尊の地蔵菩薩は秘仏であるが、等身を上回る裸形の立像で、空海の作と伝える。文徳天皇の皇后藤原明子(染殿皇后)がこの菩薩に帰依して清和天皇を出産したと伝え、安産守護の信仰が生まれた。
裸の立像というのが珍しいということでしょうか。
しかし、時宗でも由来に空海が出てくるのか。
恐るべし、弘法大師。
こうして見てくると、新京極という「新しい」場所に結構な見所がが集まっている。「新京極」というのは新しいかもしれないが、その場所には「新京極」が出来る以前からのお寺や神社がある。今は修学旅行生などで賑わっているが、こういった歴史があるということも忘れてはなるまい。
【言っておきたい古都がある・65】