四千年の知恵(その26)
~「知らぬが仏」の幸せ~
『列子』周穆王第3より。
燕で生れて楚で育った人がいた。
老年になり祖国に帰る途中で晋を通った。
すると同行者がその人を騙して晋の国が燕であるかのような説明をしたので、騙された老人は街中で姿勢を正し、お社で敬虔な気持ちになり、先祖の家と墓だと言われた場所では感極まって号泣した。
それを見た同行者は「今のは全部嘘だよ~ん」と大笑いをしたという。
騙された人は大変恥ずかしい思いをしたのだが、今度は実際に燕の国に到着して本物の町やお社や、本当の先祖の家やお墓を見たとき、どうも感動することが出来なかった。
こんな体験ありませんか?
雑誌などで名所の写真を見て感動して、実際に行って見ると「え? こんなものなの?」と思ったこと。
私は化野念仏寺の賽の河原を始めてみた時、「こんな小さいの?」と拍子抜けした。
この『列子』のエピソードで騙された燕の老人も、ひょっとしたらまだ見ぬ祖国よりも晋の方が立派だったのかもしれない。
それとも、感動も2回目になると有難味が薄れるという事か。
確かに、それもある。実は今年も高台寺の雪月花に招いていただいたのだが、同席の人から「初めてのときは感動しても、慣れると感動しなくなるのではないですか」と言われた。うーむ。私は普通に感じているように見られたか?
そこでまあ騙されて素直に感動した話に戻るのだが。。。
実際、誰かにカニカマボコを「ズワイガニだ」と言って食べさせても、何も知らなければ騙された人は一生「自分はズワイガニを食べた」という幸福感に浸っていられるだろう。ここで「今のはカニカマボコだよ~ん」と言ってはいけない。
まあ、情報過多になると期待値だけが物凄く上ってしまい、実物に接したとき「何、これ?」と思ったりしてしまうのだが。
あるいは、別の例を挙げると、中華料理のチェーン店の化学調味料ぶち込みの酢豚や唐揚げに感動した後、本物の無添加の高級中華を食べてもあまり美味しく感じなかったとか。
そこで中国4千年の知恵。虚構が真実を越える時もある。
しかし中国は残酷ですね。他人の楽しみを平気で奪う。
日本なら騙しっぱなしで幸せなままにするだろう。
ちなみに、私はある年のお正月、母親に缶詰のコンビーフを切ったやつを「ミートローフだ」と言って食べさせたことがあるが、我が母は「やっぱりミートローフは美味しいな」と満足していた。多分、死ぬまであれはミートローフだと思っていただろう。
中国四千年の知恵ではなく、京都1200年の知恵。
知らぬが仏。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・366】