四千年の知恵(その22)
~正義のためには手段を選ばず~
岳飛と秦檜。
岳飛は南宋を攻撃する金に対して幾度となく勝利を収めたが、岳飛らの勢力が拡大することを恐れた宰相・秦檜に謀殺された。
秦檜は金との講和を進め和議を結ぶが、その過程において岳飛ら抗金派の政府要人を謀殺・平民へ落とすなどした、その後も自らの権力保持のために敵国の金の圧力を背景に恐怖政治を敷いたので、後世その名は売国奴の代名詞となり蔑まれた。
こんなに単純ならば簡単なのですが、どうやらそうとも行かないようで。。。
岳飛は敵国・金に対しては主戦派であった。つまり徹底的に戦争をするぞ!とハッスルしていたのである。
対する秦檜は和平派だった。戦争反対。戦争を避けて平和を維持するために金に対して毎年金25万両と絹25万疋を貢いだ。
相手の言いなりになって莫大な富を差し出して良いのか。良くない。戦争だ。
戦争だけは絶対にいかん。金で平和が買えるなら安いもの。
客観的に見て南宋と金との軍事力の差は明らかで、どう見ても金のほうが強い。だから秦檜さんの和平論は決して間違ってはいなかった。軍事費を抑えて民衆の負担を軽減軽減したわけである。
主戦派の岳飛さんの望みどおりに戦えば戦費調達の為にかなりの税金を課さなければならなかった。
個々の戦闘に勝ったといっても、兵力も物資も消耗する。軍事行動は一方的な消費活動だから、岳飛さんの行け行けドンドンも何時まで続いたやら。
秦檜さんはリアリストだったのではないか。
中国4千年の知恵。平和のためには手段を選ばず。
その岳飛と秦檜だが、岳飛は人気者で秦檜は嫌われ者になってしまった。
しかし靖康の変(せいこうのへん)を経験した秦檜さんにしてみれば主戦論なんてとんでもない事だったのである。
で、その靖康の変だが。。。
靖康元年(1126)、宋(北宋)が、女真族の金に敗れて、中国史上において政治的中心地であった華北を失ったうえに、皇帝や高級官僚が満州に連れ去られました。まるでユダヤのバビロン捕囚だが、この時に拉致された官僚の中に秦檜さんも混じっていたのである。
秦檜さんはその後脱出して帰ってきて、和平を説くようになった。これが実は「金の手先になって帰ってきた」とされるわけでだ。
しかし好意的に見れば、「主戦派が実権を握ったままではいずれ戦争に負けて滅びる」と実感したからこそ、和平をまとめる事を金に約束して帰してもらったのかもしれない。金が建国されたとき、宋は金に対し「一緒に遼を攻めよう」と持ちかけ、金は遼を攻撃した。しかし宋はほとんど活躍しなかった。要するに、金と遼が戦って両者とも弱体化してくれれば良いと考えていたから。
しかし遼に勝った金は宋の約束違反を責めた。宋は仕方なく賠償金を払う約束をする。ところが、宋の皇帝はこの賠償金を払わなかったばかりか、金の内紛に乗じてその弱体化を画策。これでブチ切れた金が宋を攻撃した。
一旦は講和が成立したのだが、主戦派の反対によって講和条件が守られなかったため、結局は金の攻撃を受けてしまった。
これで満州に連れ去られてしまったのだな。
宋の軍事力で金に勝てるわけが無い。秦檜さんは身にしみてわかったのだろう。和平を約束して宋に帰してもらったと。
そして、なりふり構わぬ和平工作を始める。
そのためには主戦派の「人気者」である岳飛を抹殺する必要があった。
中国4千年の知恵。邪魔者は消す。
で、どうなったかは来週に続く。
【言っておきたい古都がある・362】