四千年の知恵(その21)
~健康のため飲みすぎには注意しましょう~
趙匡胤さんは大酒飲みで、ついに世の中を平和にし、言論の自由を守った。
しかし、ちょっとだけ「看板に偽りあり」の事実が残されている。
あるとき部下の諫言に腹を立てて、その部下を杖で叩きのめしたことがあった。
どんな諫言だったのだろうか。
でも、趙匡胤さんの厳命は「言論を理由に士大夫(官僚や知識人)を殺してはならない」というものであったはず。
ふふふ、「殺してはいけない」けど「ぶん殴る」のはいいのだよ。このあたりは流石、元軍人です。
これって、詭弁?
それにしても諫言の内容は何だったのか?
ひょっとしたら、
「もう少しお酒を控えてください」
それも趙匡胤さんが大酒を飲んで泥酔している最中に言ったとしたら?
叩きのめすかな。
ところで、この「不祥事」だが、その後どうなったかというと、
趙匡胤さんは悪いことをしたと、後でこっそりと謝りに行った。
酔いが醒めて、自分のした事を知って「あちゃー」と思ったのだろうか。
「ごめんね」とわざわざ臣下の者のところに内緒で行くなんて、いいとこあるかも。
しかもそれを隠さないで記録に残させるわけである。
中国4千年の知恵。酒飲みは素直に反省する。
この稀代の大酒飲み趙匡胤さんは在位17年間で宋王朝300年の繁栄をもたらした。
50歳で亡くなっているので、即位したのは33歳の時か。青年皇帝だったのだ。そりゃあ、お忍びで飲みにも行くだろう。
その死に関しては弟の趙光義により殺害されたという説が有力である。
開宝9年(976)10月20日の夜、太祖が急死し、弟の趙光義が帝位になった。
これがあまりに唐突なので弟による暗殺説というのが出たわけである。
趙匡胤さんには立太子されてはいないものの、すでに成人した男子が何人もおり、弟の即位は彼らを差し置いてのものであった。
さらに、既に人事不省となっていた趙匡胤さんの寝室に、当時晋王であった趙光義が見舞いに駆けつけるなり、趙匡胤さんの死が公表された。
だから弟による暗殺だとされる。
しかし真相は藪の中。
宮崎市定先生は、生前の趙匡胤さんが陳橋の変の時に見られるように非常な大酒飲みであったとする記録などから、脳溢血などの疾患による急死だったのではないかと指摘している。
実は私もこの指摘が正しいのではないかと思う。
証拠云々ではなく、そのほうが大酒飲みの趙匡胤さんの最期として相応しいような気がするので。
中国4千年の知恵。健康のため飲み過ぎには注意しましょう。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・361】