四千年の知恵(その13)
~本当の人材は選挙では得られなかった~
まずは郷挙里選。これを略して「選挙」と言う。
およそ2200年ほど前、中国の前漢時代の初期に政権を担当していたのは、劉邦に付き従って楚漢戦争に功績を挙げた元勲たちとその子孫たちだったが、この時期の官吏任用法は任子制と呼ばれ、一定以上の官僚の子弟を新規の官僚に任命した。
それとは別に、地方の有力者による推薦制も行われていて、キリスト暦前178年に文帝は賢良方正にして直言極諫の士の推挙を求める勅令を出し、その後も同様の勅令が何度も出されている。
まあ、「何度も出されている」ということは、実効性が上らなかったのだろう。
また、前134年に董仲舒の建言により、武帝は郡守(郡の長官)に対して毎年一人の有徳者を推薦することを義務付けた。
漢代の地方行政区分は郡>県>郷>里となっており、郷挙里選の名はここから来ている。
つまり里で選んで郷に挙げる。優秀な人材を郷里で選んで中央に推挙すると。こういうシステムだった。
要するに、選挙とは投票で選ぶのではなく推薦で選ぶものであったと。
だったら立候補なんて必要ないのでは?
みんなで推薦すればよい。「出たい人より出したい人を」である。
それはそれとして、昔の中国では各地で人材探しが盛んであった由。誰も推薦できなければ「お前のところには人がおらんのか」と、知事の力量が問われたから。
それで中央に推薦すべき賢良方正直諫の士、すなわち「賢くて善良で品行方正で上の者に対しても正しい道を説ける人物」を探しまくった。
中々いなかったみたいだ。
だから何度も人材を求める勅令が出された。
ただ、「人物」であれば年齢制限は無かったようで、下は14歳ぐらいから上は90歳以上の「賢良方正直諫の士」が候補として選ばれたようである。凄い。誰にでもチャンスがあるではないか。
次に徒手空拳。
前漢の時代、桑弘羊という人は塩と鉄の専売を実行して国の財政を立て直した。
ところが皇帝を補佐していた高級官僚は「国が商行為をするのは卑しい」と反対。激論が交わされ『塩鉄論』という本になって残っている。
前半で記した「賢良方正直諫の士」、すなわち「賢くて善良で品行方正で上の者に対しても正しい道を説ける人物」たちは桑弘羊の政策を批判して「皇帝の人徳を広めて庶民が自発的に生産物を差し出すようにするべき」だと主張した。
匈奴に対する防衛に関しても「侵入されるまえに文化で相手を醇化すべき」と言う始末。そんな甘いことで解決すると本当に思っていたのか。
これが郷挙里選(選挙)で登用された「人材」の実態だった。
「選挙」で選ばれた奴にはロクなのがいない?
桑弘羊さんは「そんな事で国が守れるか」と言ったのが「徒手空拳」である。
どんな豪傑でも武器が無ければ力を発揮できない。
「徳が行き届いていれば国が軍事力など持たなくても危機に際して庶民は自発的に戦う。そもそも優れた文化があればそれで他国を感化して戦争は防げる」と、まあこのように賢良方正な方々は仰ったわけです。
「徳が行き届いていれば国が軍事力など持たなくても危機に際して庶民は自発的に戦う」なんて、敵が攻めてきたら軍事訓練も受けておらず武器もない庶民を戦わせるわけで、一体どれだけの戦死者が出るか分かっているのか?
で、どうなったか。
結局、桑弘羊さんは謀反の罪で処刑されてしまう。濡れ衣だったのか、「こいつらはアカン」と本当に企んでいたのかは分らない。
それで、皇帝の人徳により世の中は治まったのか。
皇帝の地位についた武帝の孫は、長安に着くなり先帝の葬式すら行われていないのに酒盛りを始めた。その側近たちも先帝の棺の前で官女をレイプした由。
まあ話半分にしても凄いですね。もっとも、流石にこの人は廃されてしまったのだが。
その後の「人徳」と「文化による感化」で官僚の不要な役職が増え、そこに税金をばら撒く政策が増えた。
官僚は高い地位について職務を果たさず、財政の無駄遣いを続けて放蕩の限りを尽した。
国防は疎かになり前漢は衰亡の道をたどっていく。
もっとも、滅びるまでに90年近く続いているから結構頑張ったといえるかも。
これも中国四千年の知恵か。庶民は徒手空拳で、支配階級は無為徒食である。
ところで、桑弘羊さんが机上の空論と理想論しか言えない官僚と激論を戦わせていた頃、中国で旱魃があった。雨が降らなくて農家が困ったと。
で、占いでどうすれば良いかを問うと、出てきた答というのが、
「桑弘羊を釜茹での刑にすれば、雨が降るだろう」
利用できるものは何でも利用する。これも中国四千年の知恵かな。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・353】