四千年の知恵(その10)
~「決められる政治」を実現した政治家の最期は~
商鞅さんの続き。
商鞅の変法は伝統的な農民の生き方を無理矢理変えるもので、ずいぶん抵抗もあったようだ。
ある時、田舎の長老たちが商鞅のところに面会に来て、政治が厳しすぎる、もっと優しくしてくれ、と訴えた。
商鞅はどうしたかというと、一般民衆の分際で支配者に文句を言うとはけしからん、と言ってみんな処刑してしまった。
この辺は厳しいのである。
ところが商鞅の政治が軌道に乗ってくると治安も安定して、盗賊はいなくなる、道に財布が落ちていても恐れて誰も拾わないくらいになる。
「決める政治」「言った事は守る政治」が徹底されて社会秩序が保たれるようになったと。
こうなると世の中はいい加減なもので、掌を返すように商鞅を持ち上げる。
そこで別の田舎の長老たちが商鞅に面会に来た。
今度は何かというと、「商鞅様のおかげで安心して暮らせるようになった、有り難や」と商鞅を誉め称えに来たわけである。
そうしたら商鞅はどうしたか。
今度も処刑してしまった。
庶民の分際で御政道を誉めるとは身の程を知らぬ、思い上がった行いだ、という理由で。
要するに商鞅は国民が政府を批評すること自体を許さなかった。黙って支配されておけ、というわけ。
現代中国の習近平さんもこう出来たら嬉しいだろう。
軍功による爵位制というの採用した。戦争の時に活躍した分だけ身分を上げる。爵位をやる。活躍というのは敵の首をいくつ取ってきたかということである。たくさん殺したら身分が上る。逆に先祖代々の貴族でも敵の首を取ってこなければ爵位は与えられない。
つまり、身分なんか関係ない。実力主義なのだ。身分や出自に対する差別をしなかった。
これらの改革によって西方辺境の三流国だった秦は一躍戦国時代の主導権を握る大国に成長することができた。
これぞ正しく富国強兵。
いたずらに軍備を増強しても意味はないのだ。
「国民は政治に口を出すな」「戦争になったら理屈をこねずに敵を殺して来い」
これぞ中国四千年の知恵。
含蓄があるなあ。
そして、商鞅さんの行き着いた先。
この商鞅さん、ますます孝公に信頼されるようになった。位は最高、15の邑を授かり、財産は王と並ぶほど、という絶好調が続く。なるほど、結構私腹を肥やしているのだ。
しかし、やがて頼りにしていた孝公が死ぬ。
所詮、商鞅はよそ者で孝公の絶大な信頼があったから権力を握っていられたわけだが、結構これまた貴族たちに敵は多い。
孝公が死ぬと恨みを持つ貴族たちが商鞅にでっちあげの謀反の罪を着せた。そして新しい秦王はそれを信じてしまう。
こうなるとさしもの商鞅もどうしようもない。追っ手から逃れて国外逃亡を図った。
さて、国境近くまで逃げると夜になり、近くの町の旅籠に泊まろうとして、旅籠の扉をたたくと爺さんが出てきた。
「おい、止めてくれ」と商鞅さんが言うと、爺さんは「通行手形を持っておいでか?」と訊く。
商鞅は追っ手から逃れてきているんで通行手形なんか持っていない。そしたら爺さんこう言った。
「商鞅様の命令で通行手形を持っていない方はお泊めできません」
「そこを何とか頼む」と言うのだが、
「商鞅様の法は厳しいですから、泊めた私が後で首をはねられますんで」というわけで結局商鞅は宿屋に泊めてもらえなかった。
自分の法律が行き届いているのは嬉しいけれど、それで自分が窮地に陥るとは、因果応報というか、自業自得というか。
商鞅の国外逃亡は失敗して、仕方なく挙兵するも秦の軍隊に敗れて戦死。そりゃまあ自分が強くした軍隊であるからなあ。そしてさらにその死体は車裂(くるまざき)の刑にされてしまった。
車裂というのは両手両足を別々の馬車に結わえられて身体が引きちぎられる残酷な処刑である。つまり商鞅の死体を引き裂いたということ。殺しただけでは飽き足らないと思われるぐらい恨まれていたのだな。
商鞅さんは政治改革には成功して富国強兵を成し遂げた。
しかし、その成功の中に破局の種は生じていたのである。
怖いですねえ。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・350】