家尊人卑(その33)
~お父さんが偉くなったのは明治になってから~
前回の続きだが、「勘当」についてである。
よく、昔はお父さんが「勘当だ、出て行け!」と宣言すればそれで勘当になったように言われるが、それは間違い。
江戸時代、単に「勘当だ」と言ったぐらいでは勘当にはならなかった。
ではどうしたかというと、奉行所なり代官所なりに「勘当届け」というのを出して、それが受理されて初めて勘当になったのである。つまりちゃんとした制度としての手続きがあったのだ。
役所が勘当届けを受理してそれが認められれば勘当帳に名前が記載され、勘当になる。決して「お父さんに権威があった」からではない。勘当には法廷拘束力があったのだ。
もちろん、ちゃんとした制度だから勘当を取り消す手続きもあり、感動を解いて勘当帳から名前を削除することを「帳消し」と言った。これは今でも「貸借関係や功績を無効にする」という意味の表現として残っている。
何はともあれ、勘当というのは「家」を潰しかねない息子から「家」を守るための最終的手段だったということになろう。
さて、武家も商家も過去から継続してきて未来へと継続させねばならない「家」を形成してきた。武家では代々の家臣がいたし、商家でも奉公人(社員)の子供が親と同じ店に奉公に上る(入社する)のが普通のところもあった。
ところで、大名の参勤交代は有名だが、正室は江戸にいた。制度の起こりとしては「人質」になるのだろうが、社会が安定すれば奥さんのほうの逆単身赴任みたいなものではないかな。
そこで正室が跡継ぎを生めば次の殿様は「江戸生まれ」で江戸が故郷になる?
継続すべき「家」は故郷ではないか?
農村部からも江戸や大坂に働きに出てきた人は沢山いた。
「近世農民の行動追跡調査」(速水融・内田宣子)によると濃尾地方の一部では一度は村を離れたことのある人の率は6割にもなり、その3分の2は都市生活の経験がある由。
農民でも土地に縛り付けられていたのではないのだな。
でも「家」には縛られていたかな。
村を離れたことがあるというのは奉公に出て(出稼ぎに行って)年季が明けて(雇用期間が満了して)帰ってきたということだろうか。
江戸などの大都市での生活を経験する事によって、江戸が「第2の故郷」になっていくと、考え方も広がって、「何々村の誰それ」だったのが「日本の誰それ」になってくるのかもしれない。
自分自身の「家」の上にある主人(武家や商家)の「家」、さらにその上の「徳川将軍家」というのがあった。
タテマエとしては将軍家の上に皇室があったが、江戸時代の一般人は皇室というのが京都にあるのは知っていても普段は全く気にも留めていなかったのである。
基本的には自分たちは「何々村の誰それ」であり「何々家の誰それ」だったわけだ。
明治になってようやく国家という「家」が出来た。出来るとこれが神代から続く由緒正しい「家」になった。
明治になって民法が出来たおかげで「家」も分りやすくなったので、過去の不文律の「家」を参考にしながら明治時代の「家」を見ていこう。
明治の民法が出来てようやく日本の「家」も目に見えるようになったのかと言うと、必ずしもそうではなく、明治民法は伝統的な不文律の「家」と西洋の制度の折衷みたいものだったのである。
◎戸主(家長)が家族に対して大きな権限と責任を持った。
◎家督相続(戸主としての身分と財産)の相続順位が決まった。
◎一人相続主義だった。
◎戸主に「家」を廃する権限はなかった。
これだけだと江戸時代までの目に見えない「家」を見えるように定義して行った様にも思える。
ところが財産権は個人主義で、西洋的な私有財産制が導入されたので戸主は財産を自由に処分できるようになったし、家督相続人以外に遺贈する事も出来るようになった。
で、明治になって変わったこと。
◎戸主は一族の合議や惣領の指揮に従う必要がなくなった。
◎戸主は制度的には共同体的規制からも自由になった。
◎戸主は居住地や職業を自由に選択できるようになった。
こうして明治政府は「お父さんは偉いんだ!」と言える様にしてくれたわけである。
私はこのようにして明治の民法の下で「お父さんが偉くなった」ことにより、お父さんたちが妻子に威張りだして、結果的にわれわれのイメージにある「男尊女卑」に流れて行ったのではないかと考えている。
ところが、不文律は残っていた。
法律では私有財産になっても、慣習としては「家の財産」という考え方は生き残った。
何百年も続いてきた「家」は国会で作った法律ぐらいでは退場したりはしなかったようである。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・308】