家尊人卑(その29)
~「家」には継続性が必要とされる~
我々のイメージにある「男尊女卑」というのは明治になってからのことで、それまでは事実上の男女平等であった。では、どんな社会だったのかというと、実は「家尊人卑」であったのだ、という話を続けてきた。。
探してみても「家の制度」なんて創った人は誰もいないのに「目に見えない何か」がある。
そこで色々なエピソードから帰納的に「家の掟」を探ってきたわけだが。
全ての原則がそうであるようにここにも例外があった。「家」を見限った人がいたわけである。
北政所は「家」のしがらみを振り払って徳川を支持した。
私の見解は「豊臣家」だから見限れたのであって、「木下家」のままだったとしたらまた違う展開になっていたかもしれない、というものである。
北政所が秀吉と共に「豊臣」だったのは僅か11年にすぎない。政所にとって豊臣家というのは11年しかなかった。継続していない。「豊臣」は新たに貰った名前なので当たり前なのだが。
もちろん、秀吉と政所の間に子供が生れていたらまた違う展開どころか、歴史が変わっていただろう。
ここで補足しておかなければならないのは、歴史ファンならご存知の「秀頼は秀吉の子ではない」という説である。
秀吉は女好きで愛人が何人もいたのに子供は淀君が産んだ2人(秀頼と夭折した鶴松)だけ。
たった2人でそれも同じ人が産んでいると。
その真偽はともかく疑われますわな。
リアルタイムでも囁かれていたのではないのかな。
北政所もそれを耳にしていた。
見限るきっかけになったかもしれません。継続性が無いんですから。
不文律その5「家は直系の血のつながりの継続を重んじる」
明治以後になると「家の縛り」はかなり浸透していて、一般庶民でも気軽に「家柄」を気にするようになる。法律で決まっているわけではないけれど、良い悪いは別にして広く社会に認知されていた。
北政所はその「家のしがらみ」を(恐らく)初めて公然と断ち切った人である。
もうひとつ、関が原では豊臣方に味方する大名がたくさんいた。しかし大坂の陣ではどうか。
真田幸村は有名だが、ほかに有名どころで豊臣のために戦った人はいないのではないか。
秀吉に取り立ててもらった大名でも大坂の陣で豊臣家を支持しなかった。
徳川家康は関が原で勝った後に没収した領地の約8割を自分の親類縁者ではなく東軍に参加して戦った大名に分配している。
敵対した大名、毛利・上杉・佐竹なども減転封で石高を一桁下げられたとはいえかなりの規模の大名として残った。島津と鍋島はほとんど無傷。
こうして懐柔していた。
さらに大名の間には秀吉がやった朝鮮出兵の記憶がまだまだ生々しく、不満が渦巻いていた。
こうして豊臣家は見捨てられたとされるのだが、もうひとつ、「豊臣家」というのは「新興」の家で十分な継続性がなかったというのもあるのではないか。
「家」としては自分たちの方が長い、と(本音では)思っていた大名も沢山いたと思う。
軽いタッチで見放されたのではないかな。
現代でもあった、新興のIT社長が破竹の勢いでのし上がって、1回の不祥事で誰にも助けてもらえなかったとかいうやつ。これと似た様なものである。
時の勢いだけでは「家」というのは中々継続できないようだ。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・304】