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    京都ミステリー紀行

    家尊人卑(その28)

    ~北政所は「家」を見限った~

     前回の続き。
     大坂の陣が始まりそうになって北政所は高台寺から大坂へと向ったものの、鳥羽まで来て引き返してしまった。
     これに対する三つ目の解釈である。
     

     大坂へ行こうとしたのは最初から単なるポーズだった。いかにも自分は淀君や秀頼のことを気に掛けているのだと周りのものに見せようとしていただけ。
     だから適当なところで引き返したのである。

     つまり、政所は関が原以来ずっと豊臣家に対する執着は捨てていたのではないか、ということ。
     「潰れてもかまへんわ」と。(あ、北政所が関西弁を使うわけないですね)

     近年の研究では北政所は淀君たちと連携していたのではないかという説もある。ただ、その根拠として提出されるのは

    ◎北政所周辺に西軍関係者が多い。
    ◎側近の孝蔵主が大津城開城の交渉にあたっている。また甥である木下家の兄弟(小早川秀秋の兄弟)の多くが西軍として参加し領地を没収されているなど、西軍寄りと見られる行動を取っている。
    ◎東軍諸将との関係が薄い。
    ◎『梵舜日記』(『舜旧記』)に高台院の大坂退去から関ヶ原の戦いの数年後まで高台院と福島正則らが面会したという記録が無い。

    というものだが、反証していこう。

     まず、豊臣秀吉の奥さんだったのだから周辺に西軍関係者がたくさんいて当たり前。
     大津城開城の交渉をしたのが政所の側近でも、どうせ勝ち目のない戦いならば停戦して命を助けた方がいい。政所は東軍の京極高次を助けた事になる。まあ、高次さんの奥さんは淀君の妹でしたが。

     政所の甥で西軍として参加したのは木下家定の次男の利房と四男の俊定の二人である。6人兄弟の2人が西軍についたからといって「兄弟の多くが」と言えますか。
     政所は秀吉の奥さんだったから家康のシンパである東軍諸将との関係が薄いのも当たり前。
     そして、重要な史料である日記に記述がないからといって「面会しなかった」と断定することはできない。

     上記の◎のような根拠はむしろ北政所がそれほど豊臣シンパと縁があるにもかかわらず「豊臣家を見限ったのだ」とする見方を補完するのではないだろうか。

     出家して仏門に入ったのだから「執着を捨てよ」という仏教のテーゼに従うのは当然といえば当然なのだが、どうして執着を持たずに豊臣を見限れたのか。
     秀吉とともに豊臣家を作ってきたはずの北政所がどうして豊臣を見捨てて徳川家康を支持したのか。

     北政所にとって、もし天下を取った後でも「木下藤吉郎と寧」さんだったとしたら、「家」にこだわったかもしれない。
     2人は当時としては珍しい恋愛結婚で、政所はお母さんから結婚を反対されたから浅野長勝の養女になった上で結婚している。
     政所の実家の方が格が上だから仕方がなかったのだろう。(それにしてもお母さんは男を見る目がなかったのかな)
     何にしても、これが北政所にとって「家」を自覚する「原体験」だったのではないだろうか。
     そして、名字が変わって豊臣となっても政所が恋愛結婚をした相手はあくまでも「木下籐吉郎」だった。こう考えると平仄が合ってくる。

    淀殿(淀の方、茶々)

     北政所は秀吉の正室だったが、側室の淀君は浅野長政の娘だから「家」としては格が上になる。
     秀吉の死後、跡継ぎを生んだ淀君のシンパが増えた。家を継ぐ者の実母であり家柄も上の淀君が政所に対して「上から目線」になったとしても不思議ではない。
     秀頼も小さな時は北政所を「まんかかさま」と呼んでなついていたという話もあり、前にも書いたように、正室という立場の女性には公務と一定の職務権限があった。世継ぎたる秀頼の子育てをするヒマはない。どうしても実の母子のほうが立場は強い。

     しかも秀吉が死んだら「正室」としての地位も事実上無いものと見做されたのかもしれない。多くの豊臣の家臣にとって北政所は「過去の人」になってしまった。
     豊臣の「家」は秀頼が継ぎ、生母淀君の実家の「家」の格にみんなが靡いたとしたら。
     北政所はまたしても「家」の圧力を感じたのではないでしょうか。

     若いときに「家」の格によってお母さんから秀吉(当時は藤吉郎)との結婚を反対され、晩年になって「家」の格によって疎外された。
     こうなると政所は「豊臣」なんてもうどうでもよくなった。

     「豊臣」というのは偉くなってからの名前で、本来は違うのだから。
     捨てても惜しくない。
     秀吉の正室として戦国時代からの「政治の現場」を見続けてきた政所は徳川家康の実力を正当に評価していた。そして時代は家康の方に動いているのも見切っていた。

     私は北政所は「豊臣家」を見限る決心をしたのだと考えている。つまり「家の掟」を破ることにしたのだと。
     
     大坂の陣勃発に際して、「家」の「制度」からいえば、北政所は「家の創始者」たる秀吉の正室として大坂城に籠城し、運命を共にするのが常識だっただろう。
     ところがそうはしなかった。「豊臣家滅亡」を受け入れたのである。
     もし「木下家」のままだったら運命を共にしたかもしれない。恋愛結婚した相手と同じ名字になったのだから。「過去の想い出」という裏づけが出来る。

     ただ「豊臣」というのは新しい名字である。
     羽柴秀吉が豊臣秀吉となったのは天正15年(1587)で、そして秀吉は慶長3年(1598)に死んでいる。
     なので北政所が秀吉と共に「豊臣」だったのは11年間ということになる。
     秀吉亡き後、豊臣を継いだ秀頼はその11年間を越えた。秀吉よりも長く「豊臣さん」になったわけだ。

    豊臣秀頼肖像〔養源院蔵〕

     秀吉と政所の二人が「豊臣」であった期間よりも秀頼が「豊臣の当主」である期間のほうが長くなった。
     そこへ持ってきて「家」の格が上の淀君が偉そうにしている。
     政所が「豊臣」の名前に執着する要素はなかったのではないか。

     「豊臣」というのはニューフェイスの「家」なので過去の裏づけがない。北の政所が「私は木下藤吉郎の妻」と割り切ってしまえばそれまで。
     時代の流れは徳川の方にあるのにそれを無理に変えようとする政治感覚のない「豊臣家」を政所は見限ったのである。
     別に豊臣家が潰れてもかまわない。昔の「藤吉郎さんとねねさん」に戻って高台寺で夫の霊を弔いながら余生を過ごせればそれで良いと納得した。
     北政所にとって豊臣家なんて元々無かったのだから、ここで無くなっても気にする事はなかった。

     秀吉が太閤になったから「豊臣」というのは「格式の高い家」のように思ってしまうが、実はまだ秀頼で2代目。長さにして30年ほどの「家」である。普通の大名でもっと長く続いている「家」はいっぱいあっただろう。
     こうなると、「家の格」というのは当主の社会的地位だけではなく、「どれだけ継続しているか」が大きな要素になるように思われる。
    (来週に続く)

    【言っておきたい古都がある・303】

     

    谷口年史

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    谷口 年史(たにぐち・としふみ)

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