家尊人卑(その20)
~男も女も事実上は対等だった~
前回は「400年ほど前の日本はフリーセックスの国だったのか」という話が出て来たが、それに関して寝室の様子を探ってみよう。
平安時代の絵巻を見ると、宮中などものすごく広い部屋を仕切りや何かで区切って女性の「部屋」にしている。
どう考えても男性が忍んできた時は声が丸聞こえだったはず。
それでは具合が悪いのではないか?
などと思うのは現代人の感覚で、どこからも声の聞こえてくるのが当たり前なら誰も気にしなかったのだな。まあ、ちょっとは「うるさいなあ」と思ったかもしれないが、基本的には自分がやるときは他の人が同じだったわけだから。
それでもついには神殿造りが登場して、ここにベットルームが出来た。
部屋の四方を壁で塗り、出入り口を定めて妻戸を立てた一画、これを「塗籠」(ぬりごめ)と言った。
この塗籠には出入り口が二つあり、正面口と勝手口である。
何故二つもあったのか?
その当時は妻問婚だった。男が女の元に通って来てた。
一説によると、男が通ってきた時に中に別の男がいた時、その別の男を勝手口から逃がして正面口で待っていた相手を入れてやる。
これで鉢合わせを避けたというのだが、どうでしょうか?
これの真偽はともかく、これが男尊女卑ですか?
さて次に、江戸時代以前の日本は男尊女卑ではなく、事実上の男女同権だったという例をもう少し挙げておく。
石田三成の家来であった山田去暦の娘に「おあむ」という人がいた。
この人が戦争に参加したときの事が『おあむ物語』にある。
「われわれ母人も、その他家中の内儀、娘たちも、みなみな天守にいて。鉄砲玉を鋳ました」
みんなで弾丸を作っていたのである。こうやって戦争に協力(内助の功)をしていた。
しかし、一口に「鋳た」と言うが、火を使って金属をドロドロに溶かすわけだから大変な作業である。400年前の女性は逞しかった。
「また、味方へ取った首を天守に集めて、それぞれに札をつけて覚えておき、再々首にお歯黒をつけていました」
生首に死化粧を施していたということでだろうか。
気持ち悪くなかったのかな?
「首も怖いものではない。その首どもの血臭き中に寝たこともあります」
人間にとって「馴れ」というのは凄いものなのである。生首も一つや二つなら怖いのかもしれないが、幾つ何十となれば「アラ、また来たね」の状態で感覚が麻痺してしまうのだろう。ほとんどスイカかカボチャを扱うようなものだったのかもしれない。
何せ、血の臭いが充満する部屋で寝ていたと言うのだから。
これが男尊女卑ですか?
さらに例を挙げよう。
戦国時代に城を築いた大名は農民を労働に借り出している。それを命ずる人足徴発状には老若男女出家後家すべて出て来いとあるのが普通のようである。
これだけ見るとかなり酷いようにも思われるが、田植えや稲刈りで忙しい時にこんな事はさせないし、タダ働きでもなかった。
江戸時代に入った元和3年(1617)の越後長岡城の普請では集めた労働者に1日の仕事が終ってから、男には親碗1杯の酒と煮付けニシン3本、女には汁椀1杯の酒と煮付けニシン3本が支給された。
男の方がお酒は少し多い目にもらっている。みんなその場で飲んだのかな。女の人はお椀にフタをして大事に持って帰ったかもしれない。
男女ともお椀は持参だったのだと思う。
ニシンは3匹ではなく3本というのがミソである。半身の煮付けたやつを3本だ1人1匹半である。
ニシンと言えば京都ではニシンそば。よく「東北では畑の肥料だったニシンを京都の人が人間の食べ物にした」と言われるが、江戸初期の越後の人はちゃんと食べていたのだな。まさか煮付けたニシンを肥料にするわけもないし。
「京都で発明された」となっているニシンそばも食べていたかもしれない。
余談はさておき、この「強制労働」には女性も参加している。まさか槌を振るったり鋸を引いたりはしていだろうが、二人がかりでモッコを担いだりしたのかも。
これが男尊女卑ですか。
事実上の男女同権である。
農閑期の良い収入源に男女とも結構軽いタッチで参加していたのではないかな。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・295】