家尊人卑(その15)
~戦国時代はジェンダーフリーだった~
さて、前回までご紹介してきた戦国女性の活躍を見れば、戦国時代は男尊女卑どころか、ひところ流行ったジェンダーフリーだったのではないか。そんな気までしてくるエピソードが続く。そして、さらに続けることとしよう。
今回は富田信高の奥さんである。
関が原の戦いが近付いてきた時。挙兵した石田三成はまず伏見城を落とし、そして伊勢の安濃津城に迫った。
城主・富田信高は徳川家康について下野国に陣を構えていた。城に残っていたのは20人ほどの兵士と女子供、老人ばかり。
三成の挙兵を聞いた家康は、すぐさま敵の通り道になる伊勢に城を持つ諸侯を帰国させた。辛うじて敵の攻撃前に城に戻る事の出来た信高だったが、3万の西軍に対して城側は2500。しばらくは持ちこたえていたが、やはり多勢に無勢。信高は死を覚悟して討って出た。
そしていよいよ進退窮まった信高の前に一人の武者が躍り出たのである。
緋縅(ひおどし)の具足と黒皮二段威に半月を打った兜をつけ、片鎌の槍(穂の左右どちらかに枝のある槍)を持つその武者が次々と敵をなぎ倒すではないか。
その勇姿に城兵たちも奮い立ち、ついに西軍を押し返した。
そして突如現れたその武者こそが、信高さんの奥さんだったのである。(やっばり。という声が聞こえてきそうですが)
ここに来てついに、武家の正室は戦争に際して激励するだけではなく、実際に戦う事までやっている。
ちっとも男尊女卑ではありませんね。
武家の妻も「お家」を守らなければならない。
そう。家尊人卑だったのである。
信高の奥さんが実際に敵兵を倒したのかどうかは知らない。恐らく、ここまで来ると後世の作り話だろう。ただ、作り話とはいえ、無から有は生まれない。このような「武勇伝」の根拠となるエピソードは実際にあったはずである。
それはどのようなものだったのか。
他の武家の奥さんとは違って、城内で叱咤激励するだけでなく、外に出てきてやった可能性あると思う。いつのまにか話に尾ひれが付いて、奥さんが敵を倒した事になったのだろう。
ここでも奥さんの叱咤激励が利いたのか、安濃津城は落ちず、三日後、ついに西軍が和睦を提案してきた。
戦い続ければいずれは陥落する。信高さんは和睦を受け入れ、開城すると高野山へ入ったのであった。
この高野山というのもよく出てきますね。和平を勝ち取って「負けた」武士の亡命先だったのだろうか。
さて関が原の後、信高さんは家康に召し出されて2万石を加増のうえ旧領を安堵され、その後さらに伊予宇和島12万石へと栄転した。
奥さんの武勇伝があったればこそではないだろうか。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・290】