家尊人卑(その12)
~「男らしく」することは「女らしい」ことだったた~
前回に引き続き、武家の世界でも男尊女卑ではなかった、という話を続けよう。
今回は、後に豊臣秀吉の側室になった甲斐姫のエピソード。
秀吉の小田原攻め(天正18年・1590)のとき。小田原城主・北条氏政のために出陣する忍城(おしじょう)の成田氏長は留守にする城の後事を正室と娘の甲斐姫に託した。
出陣に際して氏長は娘にアドバイスしている。
「お前は軍事に明るく武勇もぬきんでているが、女である事を忘れてはならない。勇に任せて無闇に戦うな。城を固める事に専念し、小田原からの指図に従うように」
かなり武闘派のお姫様だったようである。
城主が城を空けるときに奥さんと娘が留守中の守りを託されたと。
これが男尊女卑ですか?
しかも甲斐姫は軍事に明るかった。つまり兵法の教育を受けていたわけである。
女の子でも軍事の勉強が出来たのだ。
さて、秀吉の小田原征伐の一環としてこの忍城に石田三成の軍勢が攻めて来た。総勢1万5千。
忍城は「難民」として逃げてきた百姓や僧侶など約3千人を収容し、防衛戦に入った。
軍の大半は城主と小田原に行っているので、甲斐姫はこのとき受け入れた「難民」を兵隊としてちゃっかり使っている。
そして三成がどんなに攻めても忍城は落ちなかった。
この戦いで甲斐姫は白鉢巻に襷がけで、長刀を持って城兵を激励して廻ったとされる。
石田三成の作戦ミスもあって忍城は陥落しない。
戦いの経過とともに、甲斐姫は烏帽子型の兜に小桜縅の鎧、猩々緋の陣羽織を身につけ、家宝の名刀「浪切」を腰に差し、金覆輪の鞍をつけた黒駒にまたがり、銀の采配を持って戦意を高揚させた。
「負けるな! もつとガンバレ!」と叫んでいたのでしょうか。
こうなると男装の麗人である。宝塚の男役みたい。
これって男尊女卑ですか?
余談だが忍城は最後まで陥落しなかったのである。甲斐姫は城を守りぬいた。
ただ、肝心の小田原城が落城したため、甲斐姫の奮闘は無駄になってしまった。
それなら最初から城主の氏長ではなく、甲斐姫を小田原に派遣していればよかったのでは?
そうすれば歴史が変わっていたかも。
初めに書いたように甲斐姫は秀吉の側室になった。立派な戦いぶりが秀吉のハートを射止めたのでしょうか。
お父さんの氏長も(負け組のはずが)秀吉から下野烏山城主に取り立てられている。男子をもうけることなく亡くなったので本来なら領地没収なのだが、側室になった甲斐姫の尽力で氏長の弟である泰親への相続が認められた。
甲斐姫は秀吉を陥落させた?
<余談>
ここからちょっと話が横道にそれます。^^
この甲斐姫は氏長の娘ではなく妻だという説もあり、この設定で山田風太郎が忍法帖シリーズのひとつ、『風来忍法帖』を書いている。もっとも、この小説では「麻也姫」になっていますが。これがこの忍城の戦いを実に面白く描いているので、是非お読みください。
【言っておきたい古都がある・287】