六角牢(その2)
~幕末に京都の牢屋で不祥事があった~
江戸時代の牢屋敷で有名なのは時代劇にもよく出てくる伝馬町牢屋敷である。ただ、牢屋敷というのは刑務所ではなく、拘置所だった。そしてここの責任者、牢屋奉行は石出帯刀の世襲だった。
江戸時代というのは近代合理主義的なところがあって、幕府の要職で世襲は行われていない。もう少し正確に言うと、職務権限の世襲はほとんどなかった。老中の子供だからといって老中になれるわけではない。
だから江戸の牢屋奉行が世襲であったという事は、これといった職務権限がなかったということ。同じ奉行でも町奉行とエライ違いである。まあ、江戸町奉行といえば今で言う東京都知事と最高裁判所の判事と検事総長と警視総監を1人でやっていたようなものなのだが、牢屋奉行というのは牢屋の番人の責任者なので、今なら拘置所の所長である。
奉行というのはその組織の責任者という意味で、要職であろうが閑職であろうか責任者はみんな奉行。このあたり、大統領であろうが銀行の頭取であろうが会社の社長であろうが大学の学長であろうが全部プレジデントである英語と変わらない。
江戸時代は英語的だった?
その牢屋番の親玉である牢屋奉行がたったひとつだけ、職務権限に近いものを持っていた。
時代劇にも出てくる、火事の時の解き放ち。
火事が起きて牢屋が燃えそうだというとき、牢屋奉行がやって来て罪人たちに
「只今よりお前たちを解き放つ。明後日の午の刻までに回向院の境内に戻ってまいれ。戻ればよし、戻らねば重罪に処す」(台詞はイメージです)
と告げるわけである。
そして牢屋奉行にとってはいかにも自分が幕府の権威を代表しているという姿を見せることが出来る唯一の機会だったわけだから、気合が入ったと思う。もう火の手が迫って、みんな早く逃げたいのに奉行が厳しい顔をして、
「皆のもの~っ、よっく聞け~い!」
とか言われたら罪人たちは「早よせいや」と思った事だろう。
でも言ってるお奉行様はカタルシスを感じていたに違いない。
そこで京都なのだが、六角牢の跡に「勤皇志士平野國臣外数十名終焉の跡」というのがあるということは、この数十名が牢屋で死んだということになる。
元治元年7月19日(1864)に始まった禁門の変に伴い長州勢が京都に攻め込んできたことにより生じた火災(どんどん焼け、鉄砲焼けともいう)は、京都市中に広がった。
当時この牢屋敷にはいまだ判決が定まっていなかった生野の変の首謀者・平野國臣など囚人33人が収容されていたが、20日には火の勢いは六角牢に迫り、西町奉行・滝川播磨守の判断により、収監の罪人の破獄を恐れ、急遽、平野國臣、古高俊太郎らの処刑命令が下された。
まず生野挙兵の関係者から引き出され、切支丹牢の東側で3時間にわたり斬刑が続いた由。
ところが結局、六角牢に火は回って来なかった。結果的には慌てて処刑する必要など無かったわけである。
この件で滝川サンは京都守護職・松平容保の叱責を受けているのだが、𠮟責だけで済んだのか。
このケースでは京都町奉行というのは辛い立場であろう。
六角牢に牢屋奉行はいなかった。京都の町を四条室町の辻を中心にして四方へ四座の支配区域に分けた四人の雑色がいて、この手下が牢屋敷に詰めていた。まあ手下と言っても中々ややこしい制度になっていたのだが。
さて、六角牢にも江戸のように牢屋奉行がいれば何も考えずに規定どおり解き放ちをやっただろう。しかし違った。
しかも時は幕末。収監されているものの中には勤皇の志士がいる。この連中を解き放ったら、戻ってくるわけがない。これ幸いと、火事の中をスタコラサッサと逃げてしまう。常識ですわな。
こうなると西町奉行は困る。勤皇の志士が戻ってこなかったら解き放った自分の責任になってしまう。しかも戻ってこないことは分りきっている。
どうするか?
しゃあない、いてこませ。
で、全員の首を斬ってしまった。
未決囚を死刑にしてしまったのだから大不祥事である。それも実際に火の手が回って牢屋敷が燃えたのならともかく、燃えなかったのですからねえ。
牢屋敷が燃えてくれたら死体を火の中に入れて、勤皇の志士は全員焼け死んだということに出来たかもしれない。それでも志士ばっかり逃げ遅れるなんて、というツッコミは入っただろうが。
それでは私はこの件に別のツッコミを入れますが、それはまた来週。
【言っておきたい古都がある・274】