六角牢(その1)
~日本初の人体解剖は京都でやった~
前回まで伏見の寺田屋について書いたが、寺田屋といえば幕末、幕末といえば勤皇の志士で、その志士がよく放り込まれたのが京都の六角通りにあった六角牢屋敷、略して六角牢である。
去年が大政奉還150年。なので当然のこととして今年は明治維新150年。私も昨年は「京都ミステリー紀行・幕末編」で稼がせてもらったが、今年は別に「明治維新編」に看板を替えることもなく、「幕末編」のままでやっている。
と、いうわけで、今回からは勤皇の志士たちが放り込まれた京都の六角牢の話題に移る。
今でも観光名所になっている二条城だが、その北側に京都所司代があった。そして二条城の南側には京都東町奉行所があり、その北西の位置、二条駅の少し北の辺りに西町奉行所があった。その間は与力と同心の組屋敷になっていた。
江戸の町奉行所の同心の組屋敷があったのは八丁堀で、大坂の町奉行所の与力や同心が住んでいたのは天満である。
時代劇では同心のことを「八丁堀」と呼んだりするが、これは歯切れがよくてかっこいいですね。大坂ではどう言ってたのか? 「天満」では間が抜けているし、「天満はん」では頼りなさそうである。どなたかご存知ありませんか。
京都でも何と呼んでいたのやら。「二条」ではやはり間が抜けている。「二条さん」でも何かおかしいし、やっぱり「お役人様」でしょうかねえ。
江戸の同心を「八丁堀」と呼んだのは、現代で刑事のことを「デカ」と言うのと似たような感覚なのかもしれない。しかし、現代では刑事に面と向かって「デカ」とは言わないだろう。このあたり、「八丁堀」というのは隠語が長らく使われている間に定着してしまい、隠語としての効果を失って普通名詞化した可能性もある。
京都の町奉行は当然の事として京都所司代の監督下にあったが、大坂町奉行と奈良町奉行も所司代の監督下だった。結構権限が広かったのだな。
江戸では町奉行というのは老中の監督下だが、この辺は江戸から遠いし、仕事も多くなるし所司代に振っておけ、てなもんでしょうか。
慶長5年(1600)に所司代が設置された時、奉行所は「京都郡代」と呼ばれていた。その後、寛文5年(1665)8月に2人制の奉行所として独立。
寛文11年までは伏見奉行を兼務したようである。
江戸城での待遇は芙蓉の間席で大坂、堺の両奉行と一緒だが、序列は京都が大坂の上。つまり京都町奉行はちょっと偉かったのだということ。
役高(就任するのに必要な家禄)1500石、役料(在任中の給料)600石であった。
牢屋敷は最初は二条城の東南の位置にあったのだが、それが宝永5年(1708)に火災にあって三条今新在家に新築。ここが東町奉行所から南へ三筋目の六角通りの南側だったので六角牢屋敷、略して六角牢と呼ばれた。今では六角獄舎とも呼ばれている。
この六角牢に関して特に目立つ話題は、宝暦4年(1754年)、医学者・山脇東洋が京都所司代の許可を得て日本で初めて人体解剖を行った場所であること。解剖には死刑囚が用いられた。
幕末といえば「日本の夜明け」というフレーズがよく出るけれど、「日本の医学の夜明け」は六角牢から始まった。記念すべき場所なのだ。
ところが、この六角牢の跡には「勤皇志士平野國臣外数十名終焉の跡」という石碑があり、この石碑だけを見たのでは誰かに教えてもらわなければ六角牢の跡だとは分らない。
まあ歴史は勝ち組が作りますからこれも仕方ないとはいえ、この石碑にしても「ここで幕末の勤皇の志士が死んだんやな」ぐらいしか分らない。
で、次回はこの石碑と六角牢の関係について書きます。
【言っておきたい古都がある・273】