伏見の寺田屋(その1)
~龍馬ゆかりと龍馬ゆかりでないこと~
みなさん。あけましておめでとうございます。
m(_ _)m
旧年中はこのコラムのご愛読ありがとうございました。
今年もよろしくお願いいたします。
さて、昨年は大政奉還150年。
ということは、今年は明治維新150年である。
私も去年は「京都ミステリー紀行」の幕末編を作って、まずまずの反応を得た。で、今年は「維新篇」にするかというと、そうではない。タイトルだけ変えて中身は同じでは顰蹙ものである。去年のままで続けます。
そこでこのコラムなのだが、幕末・維新と私の地元・伏見といえば一番有名なのが寺田屋。坂本龍馬との関係で今でも人気がある。
そこで新春一発目は寺田屋について、あったことやら、なかったことやら、書いてみようという試みなのだが、こういう超有名どこは専門家も多く、どこからどんなツッコミが入るか、戦々恐々として書いていく。
最近は伏見もかなり観光に力を入れるようになってきたからか、大手筋(かつて伏見城の大手門に至る道だったのでこの名がある)商店街とその周辺には新しい飲食店が出来ている。
しかし伏見といえばあの寺田屋。
遊郭が無くなった後、特に観光とは縁のなかった伏見を観光客が来る町にしたのは寺田屋の功績だと言える。たとえ、そのやり方がちょっと「?」であっても。
何が「?」なのか。
この寺田屋があの坂本龍馬が暗殺された場所だと思っている人が沢山いた。
しかし大間違い。龍馬が暗殺されたのは近江屋である。
その近江屋も今では無く、以前は旅行会社、コンビニと変わり、現在では回転寿司屋になっている。時代の流れだな。
ただ、かつての近江屋のご子孫の方は健在で、近江屋に残っていた龍馬をはじめ、幕末関係の資料を京都国立博物館に寄贈された。
その資料の中には暗殺の部屋にあって、龍馬の血しぶきがかかった屏風もある。近江屋そのものは無くなったけど資料は残った。
しかし、どんなに貴重な資料が残されたとしても、「歴史の現場」そのものは失われてしまったわけである。
近江屋に限らず、今まで多くの目に見える「歴史の現場」が消えて行った。
にもかかわらず、寺田屋は健在なのである。そりゃ、こっちが暗殺現場だと勘違いする人が出ても仕方が無いかも。
もちろん、龍馬も寺田屋に泊まっているが、殺されたのではなく、間一髪で助かったほう。あの有名な、幕府の捕り方に囲まれたけれど、お竜さんが気づいて風呂場から裸のまま出てきて急を告げたというやつ。
血なまぐさい方の「寺田屋事件」は、これまた有名な、薩摩の藩士同士が斬り合いをやった事件である。
どうも「龍馬は寺田屋で暗殺された」というのは、こっちの事件と混同されていたのではないか。この話は後日書くとして、寺田屋の「?」について。
今ではどうか知らないが、かつてはここに「龍馬が暗殺された部屋に泊まりたい」というお客さんが結構来たそうな。で、寺田屋も「この部屋です」と言って泊めていたと。
インチキやないか。
そもそも龍馬はここでは殺されていないのだからから「暗殺の部屋」なんてあるわけがない。
それは皆さんお分かりだろうが、実は仮に龍馬がここで暗殺されていたとしても、現在「暗殺の部屋」は存在しない。
何故か?
答は簡単。今の寺田屋の建物は幕末当時の物ではないから。
建て直されてるのである。
「おかしいぞ。ちゃんと柱に刀瑕があるではないか」と、おっしゃる方もおられるだろう。でも、明治以後に建て直された建物に幕末時代の刀瑕なんてあるわけがない。だからニセモノ。後から付けたの。
地元の人は昔からみんな知ってた。これが身も蓋もない事実である。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・268】