忠臣蔵異論
昭和の時代は「大型時代劇」というと「忠臣蔵」が定番であった。それほどこの話は日本人の嗜好に合っているだと考えがちなのだが、これには映画界の事情も絡んでいた。
つまり、日本でオールスターキャストの映画を作ろうと思ったら「忠臣蔵」しかなかったのである。それ以外だと役の取り合いで映画スター同士が喧嘩になる。プライドの高いスターたちは「いい役」しかやりたがらない。そのスターたちを納得させられるのが「忠臣蔵」という作品である。これなら赤穂浪士はすべて「いい役」であるし、悪役の吉良上野介も「いい役」になる。大スターたちを難なく割り振れる。便利な作品なのだ。
そこでこの「忠臣蔵」なのだが、「主君の敵討ちをして、最後は見事に切腹した」という「美談」に異を唱えようというのが、今回の趣向である。
吉良上野介は悪くない。
全てはこの一語に尽きる。
芝居や映画やドラマでは吉良が頓珍漢な格好をして出てきた浅野内匠頭を「ふなじゃ、ふなじゃ、ふな侍じゃ」とか言って虐めるが、これは現実には有り得ない。
考えてみてもらいたい。吉良は浅野の直属の上司であったのだ。故に、もし浅野に何か不始末があれば、それを直接指導監督する立場であった吉良さんも幕府から何がしかのお咎めを受けなければならない。
自分に責任問題が降り掛かってくるのが分かっていて部下を虐める上司がいますか? 浅野に不始末があれば吉良も同罪なのである。
吉良は浅野を虐めてはいない。
殿中松の廊下での刃傷事件を今風に言えば
浅野内匠頭の心神喪失状態における傷害事件
ということになる。
当たり前なら切腹(死刑)などになるはずないのだ。
でも、刀を抜いたのがたまたま殿中であったがために切腹しなければならなかった。
切腹の理由は「殿中で刀を抜いた」というこれしかない。
ということは、もし浅野が吉良に対して何か本当に遺恨があり、それが武士として絶対に看過できないものであったとしたならば、
殿中から出た所で吉良を呼び止め、尋常の立会いを申し入れたらそれでよかったのである。
これなら何の問題もない。殿中から出てしまえば刀を抜くのは自由なのだ。
しかも相手は年寄りだから必ず勝てる。
浅野はこの程度の配慮も出来ないぐらい理性を失っていた。
ではどうして浅野は「キレて」しまったのか?
どうもそのしばらく前から浅野内匠頭は精神的に少し不安定な状態になっていたらしい。そんな人が勅使接待の緊張感の中で押し潰されてしまうというのは、現代でもありそうなケースであろう。
ストレスを内側に溜め込んでしまった人が、ある日突然爆発する。
松の廊下の刃傷事件というのは、思わぬ所で心のバランスを崩してしまった人の何ともお気の毒な不祥事といえるのではないか。
【言っておきたい古都がある・266】