昔の離婚
~決して男尊女卑ではなかった~
ツアーの途中でお客さんと談笑中、話の流れで「江戸時代は男が女に三行半(みくだりはん)を渡せば離婚できたのだから女性の権利はなかった」という話題が出た。そこで私は
「それは違う」
とその日のツアーの内容とは何の関係もない話をしたわけである。
時代劇などでは三行半で一方的に離婚が出来たようになっているが、実際は旦那が奥さんに三行半を渡しただけでは離婚は成立しなかった。三行半を渡された奥さんが「返し一札」という三行半の受取証を旦那に渡して始めて離婚が成立したのである。
だから、奥さんのほうが離婚したくなければ返し一札を書かなければ良い。
それでも旦那の方がどうしても離婚したければ「置き去り」にする、つまり奥さんを残して旦那さんが家を出てしまうのだ。このとき財産は全部残していかなければならなかったようである。それで一定期間たっても帰ってこなければ奉行所が離婚したものと認定してくれた。
一方、奥さんの側から離婚したい場合は駆け込み寺、たとえば有名な鎌倉の東慶寺とかに逃げ込んで「足掛け3年、丸2年」そこにいたら離婚が成立したと言われている。
これもちょっと違っていて、タテマエとしては「足掛け3年、丸2年」かもしれないが、実際は駆け込みがあればお寺からの使者が奥さんの家まで行って、旦那さんや町年寄りといった関係者に連絡し、全員を集めて事情聴取をする。それで旦那さんのほうに家庭内暴力があったとかで奥さんのほうに離婚の正当な理由があると分ればすぐに離婚させてくれた。
男のほうからしか離婚の申し出が出来ないのにどうして離婚させるのかというと単純明快で、旦那に強制的に三行半を書かせるわけだ。
有名な「足掛け3年、丸2年」の規定なのだが、これはたとえば離婚を望む奥さんのほうに(不倫してたとかで)正当な理由がなく、旦那も別れる意志のない場合、縁切り寺にこの期間居座れば離婚が成立したということではないか。
つまり、奥さんのほうに責任があり、旦那さんは「やり直そう」と思っているのに奥さんのほうが「今の旦那と別れて不倫相手と一緒になる」と思っていれば、縁切り寺に居座ったと。
何はともあれ、江戸時代の縁切り寺というのは、現代風に言えば「離婚調停専門の家庭裁判所」ということになるのではないかな。
読者のみなさんも「昔の日本は男尊女卑だった」というのは嘘ではないかと思えてくるに違いない。その証拠として次に中世(鎌倉時代から室町時代にかけて)の離婚についてご紹介する。
<鎌倉時代から室町時代にかけての離婚について>
中世では離婚のことを離別と言っていたが、江戸時代と同じように離婚の権利は男だけにあった。しかも奥さんのほうに何の落ち度がなくても男の方から一方的に離婚を申し渡すことが出来たのである。この辺は問答無用だな。
これだけだと本当に男尊女卑だと思われてしまう。
離婚された奥さんは泣く泣く実家に帰るしかなかったのか。
いいえ、そうではありません。
まず、結婚に際して奥さんが持ってきた所領(今風に言えば持参金)は奥さん名義の財産である。結婚によって夫の名義になることはない。故に全て持って帰る。たとえその領地が夫の家にとって重要な収入源になっていたとしても、離婚したら奥さんは実家に持って帰る。もちろん、土地は持って帰れないから、その土地から夫を締め出すわけだ。元々夫のものではなかったのだから当然である。
さらに何の落ち度もないのに離婚をされた場合、奥さんが結婚後に夫から譲ってもらった財産は離婚しても返す必要がなかった。
結婚後に奥さん名義になった財産はあくまでも奥さん個人の私有財産であったということ。「家の財産」という考え方ではなかった。
ここまでは御成敗式目で規定されているのだが、もうひとつ当時の慣習として認められていたことがある。
何の落ち度も無く離婚された奥さんは、実家に帰る時に夫の家にある物を手に持てる物であれば何でも持ち出してよかった。
つまり家具であろうが食器であろうが蒲団であろうが装飾品であろうが、好きなだけ貰って帰っても良かったのだ。
理不尽な離婚の仕返しに夫の家をスッカラカンにしてしまえた。
この連載の142回目「中世トリビア」(その11)で紹介したように『沙石集』に「人の妻の去らるるときは、家の中の物、心に任せ取る習いにて」とあり、これは「女性の権利」として広く社会に認められていたことが覗える。
奥さんは泣き寝入りする必要は無かった。
これが男尊女卑ですか?
【言っておきたい古都がある・263】