女帝と皇位継承の話(後編)
~結局、伝統とは何なのか~
先週の続き。奈良時代の天皇は男女が交互に即位するのが原則であった、という話。
今回はその原則が破られたときとその事情について。
男女が交互に即位するという奈良時代の天皇の皇位継承に関する原則が破られた1回目は天武天皇のときである。先にも書いたが、この時原則が破られたのは皇位の継承そのものが壬申の乱(672)による混乱の後に行われたからだといえるだろう。
天智天皇の崩御後、原則どおり女性が即位すれば何も問題は無かったのだが、大友皇子が皇位を継いだとされている。弘文天皇である。これに「男が続いても良いのならば俺にも権利がある」と思ったのだろうか、大海人皇子が反旗を翻した。そこで壬申の乱という1ヶ月に及ぶ戦争に突入したわけである。
原則に従っておけばこのような事態は防げたのではないか。原則とか伝統には余計な混乱を回避する知恵がある。この乱の結果、歴史の教科書で習ったように大海人皇子が即位して天武天皇となった。ここに男女交互即位の原則は破られたのである。
さて、天武天皇は息子の草壁皇子を皇太子にしている。こうなるともう完全に原則無視だな。ところが、天武崩御後、皇太子は即位することなく母親である天武の皇后が後見としてサポートしていた。しかし、生来病弱だった草壁皇子は天武崩御の3年後に死んでしまう。その結果、天武の皇后が即位して持統天皇となった。
天武天皇も持統天皇も草壁皇子の即位を望んでいたのに、病弱だったとはいえ、何故3年も即位できなかったのだろうか。「先帝の喪に服する」といっても、3年間も天皇陛下がいないままでは、そっちのほうが具合が悪いのではないか。
私はこれは男女交互即位の原則に阻まれたのではないかと考えてる。
さて、2度目の「例外」に移ろう。
男女が交互に天皇に即位するという原則に例外が現れた2回目は、女性の元明天皇の後に女性の元正天皇が即位した時である。
元明天皇は孫である首皇子(おびとのみこ)に譲位したかった。これなら原則どおりなので何の問題もない。ところが、皇子はまだ若い(14歳)という理由で阻まれた。そこでワンクッション置くために元正天皇が即位したわけである。何故ここで女性が続いたのか。
元明天皇の意中の人はあくまでも首皇子(後の聖武天皇)である。しかし、ここで「ワンクッション」のつもりで即位させた相手が男であれば、原則どおりなのでそのまま固定してしまう。その次の天皇は女性が即位することになりますから、首皇子の即位は遠いてしまうのだ。
そこであえて自分の娘を元正天皇として即位させ、「原則が破られている状態」を作ることにより、首皇子が即位に相応しい年齢に達したら「原則どおりの型に戻す」という理屈でに問題なく即位できるようにした。こう考えるのが妥当ではないか。
2度目の例外は自分が望む相手を即位させようとした元明天皇の深謀遠慮だったのである。
このように見てくると、男女交互即位の原則が(不文律であったにしても)かなり強く認識されていたのが分かるのではありませんか。
天皇陛下の即位は「男系の男子に限り、女帝は例外」という現代の認識は(飛鳥時代を含む)奈良時代には当てはまらない。今後もし女帝が即位しなければならない事態になったとしても、それは伝統を破るのではなく、「即位に男女の差別は無い」という奈良時代の伝統に回帰するだけのことなのである。
【言っておきたい古都がある・212】