ぶぶ漬けの真実
~京のお茶漬けと阿吽の呼吸~
いよいよ200回を越えたこのコラム、今回も原点回帰してあの「京都のぶぶ漬け」について考える。
これはもうかなり人口に膾炙した話だが、京都の人から「お茶漬けでもどうですか」と勧められたから「いただきます」と言ったら嫌な顔をされたという一件。
こんな事、実際にあるのか?
ある。
というか、あった。
私は父がこれを言ったのを覚えている。2回あった。で、私の父がこれを言ったら2回とも相手は
「あ、いえ、これで失礼します」
と言って帰っていった。
要するに「お茶漬けでもどうですか」というのは「早く帰れ」という意味なのである。これが分かっていなければコミュニケーションが成立しない。
これは婉曲表現なのである。
露骨に言うと失礼だから遠まわしに言う。これもひとつの思いやりの心なのだ。「早く帰れ」とストレートに言えば人間関係が壊れるかもしれない。それを防ぐためにオブラートに包む。それがこの表現なのである。「お茶漬け」というのは、相手に帰宅を促す一種の記号と思っていただければいい。
そもそも「お茶漬け」を勧められるのは、その客が長居をし過ぎているのである。その事実を棚に挙げて「京都のお茶漬け」を非難してはいけない。
では、長居していないのにいきなり「お茶漬け」を勧められてしまった人はどうなのか?
それはその時、お茶漬けを勧めても不思議ではない時間帯だったということ。
つまり食事時間である。
その家の食事時に訪問するというのは非常識ではないか。「ああ、今はどこともご飯を食べる時間だな」と思ったら、訪問は控えるものだろう。他人様の家を訪れるのに食事時を狙って行く、というのはマナー違反ではないか。
つまり「お茶漬けを勧められる」というのは、
①食事時間まで居座る奴。
②わざわざ食事時間にやって来る奴。
ということになる。
他人の食事時間に割り込むような礼儀知らずを追い返すのに、さりげなく、柔らかく、
「お茶漬けでもどうですか」
と言って相手を諭すわけである。
「もしもし、貴方、うちはこれからご飯なんですよ。いつまで居るんですか」
このように解釈するのが正しい。
「お茶漬け」それは思いやりの表現。
露骨に言って対人関係を損なうのではなく、比喩によってこちらの真意を相手に伝える。相手もそれを汲み取って引き下がる。(注・ここで食い下がってはいけない)
つまり貴方と私とが阿吽の呼吸でコミュニケーションを取る。これがぶぶ漬けの真実である。間違っても、食事時間に割り込む自分たちの非礼を棚に上げて「京都の人はお茶漬けを食わす」などと頓珍漢を言ってはならない。
もし「お茶漬け」という記号を受け入れて正しく反応したならば、その人は
「お、こいつは分かっている」
と思ってもらえるだろう。そして何時の日か、ついに
「まあ上ってお茶でもどうですか」
と言ってもらえるに違いない。
ただし、これも「お茶漬け」の別ヴァージョンだったりするかもしれないけれど。。。
【言っておきたい古都がある・201】
桂米朝 「京の茶漬け」
連載200回目記念です!
谷口年史さんの「言っておきたい古都がある」は、平成24年6月5日、第1回「あきれカエル? ひっくりカエル? 〜新興宗教だって真面目にやってる〜」から4年余、京都の話題のみならず、国際的、国家的な課題疑問、さらには幽霊界の謎にいたるまで200回にわたり連載。
コラム連載200回を記念して谷口氏主宰の「京都ミステリー紀行」に読者の皆様をご招待いたします。
内容、応募詳細は
200回記念招待 http://kyotocf.com/news-hop/event/kyo-mystery-200/
から。
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