中世トリビア(完結編)
~俗は信じて多く施せ。僧は節して少なく取れ~
沙石集(しゃせきしゅう / させきしゅう)
鎌倉時代中期、仮名まじり文で書かれた仏教説話集。十巻、説話の数は150話前後。無住道暁が編纂。弘安2年(1279年)に起筆、同6年(1283年)成立。
鎌倉時代の僧無住が、多方面に及ぶ好奇心と無類の博識により集めた仏教説話集。中世の庶民生活、修行僧の実態、地方の珍しい話が巧みな語り口で描かれている。『徒然草』、連歌、狂言、落語などに多大な影響を与えた。
その後も絶えず加筆され、それぞれの段階で伝本が流布し異本が多い。記述量の多い広本系と、少ない略本系に分類される。
中世の古典『沙石集』をネタ本にしたシリーズもそろそろ締め括りをつけよう。
鎌倉時代は寺院のポストを得るにも実力本位のところがあって、有体に言えば「勝てば官軍」だったのである。巻第10(本)ノ2には
「吉野(金峰山寺のこと)の執行は一門の中に威勢あれば打取りてする習いにて(中略)弟も武勇の路に達して勢いもありければ、兄の執行を討ち落として執行せむとしけり。兄も用心隙なし」
とあり、武道の道に達して勢いがあれば、執行の地位を力で奪い取っても良か
った。お坊さんも命懸けだったのだな。
まあ、坊さんの派閥争い、権力闘争は昔からえげつなかったということか。
それじゃあ、こんな坊さんたちに民衆を導くことが出来るのか。あるいは、民衆はこんな坊さんを受け入れることが出来るのか。この問題にも『沙石集』は一定の答を出しているのだ。
巻第9ノ13で『智論』にある言葉を引用して説いている。
「犬皮の袋の臭きに包める金をば、袋の臭きによりて捨べからず。たとひ僧は破戒なりとも、説くところの御法に私なくば、法を信じて人の失をたださざれ」
犬の皮の袋に入れた臭い金を、袋が臭いからといって捨てたりはしない。たとえ破戒僧でも説法が無私であれば、仏法を信じて人の欠点をあげつらうな。
ということだろう。
しかしこれが中々難しい。
大酒飲みで金に執着する高僧がどんなに立派なことを説いても有難くないだろう。
そんな坊さんは人のいう事を無視しても自らが無私の精神になることはないのではないか。
でも、そんな人にでも誉められたら嬉しいのかな。嬉しくて、ついその高僧の悪い部分を「闊達」とか「豪快」とか「豪放磊落」とか言って容認してしまう。「あの人は清濁併せ呑むタイプだ」とか何とか言い繕って。
それはそれで困ったものなのだが、何と『沙石集』にはそれに対する諭しも記されているのである。先ほど紹介した「吉野の執行」のエピソードに続く文の最後で
「ちょっと誉められたからといって、はしゃぐなよ。誉める下には謗りがあるぞ。驕るな。誉められようが謗られようが心を動かすな」
と言っている。まあ「平常心が大切」ということでしょうか。
巻第10(本)ノ1によると
「魔界の人を取るも、先ずその心を動かし惑わして、心も物狂わしくなる」
ので、このときこそ仏の人を救う道に入らねばならないのだとか。そして結局は
「法も捨てよ、非法も捨てよ、執着を捨てよ」
になるのである。
しかしまあ、「犬の皮の袋に入れた臭い金を、袋が臭いからといって捨てたりはしない」のはその通りだが、中身のお金は取っておいて臭い袋だけ捨てるということはあるだろう。
御仏の教えは有難く頂戴して、破戒僧は捨てても良いのではないかな。
ま、世俗での地位の高さに惑わされないようにしましょう。
しかしそうなると、いよいよ我々はどうすれば良いのか分からない。
が、ちゃんと『沙石集』は巻第10(末)ノ1で教えてくれている。
「俗は信じて多く施せよ。僧は節して少なく取れ」
なるほど、と思うのだが、これに似た言葉にトルストイの
「能力に応じて働き、必要に応じて取る」
というのがある。まあ現実には有り得ないだろう。有り得たら堂々たる大伽藍など建つはずがない。
それではもう世も末なのか?
と思いたくなるが、ところがそうでもないのである。
鎌倉時代も現代も大して変わらない。
ということは、鎌倉時代で「仏教界はこんなに堕落している」と言いながら、日本はその後700年も800年も続いているのだ。
ということは、現代にちょっとぐらい不良の坊さんがいても、この先また700年や800年は続くのではないか。
そう考えると気が楽になる。
「中世トリビア」(完)
【言っておきたい古都がある・148】
岩波書店の日本古典文学大系に収録されている『沙石集』は、ポルノ映画にたとえれば「ノーカット無修正版」である。抹香臭い話ばかり残して面白い話をばっさりカットしている小学館版とはテキストとして雲泥の差がある。この連載を読んでネタ本である『沙石集』も読んでみたくなった方は、迷うことなく岩波版を手に取っていただきたい。