悪霊だらけ(その13)
~かくして崇徳院は怨霊になった~
菅原道真が政権内部での権力闘争の果てに敗れて怨霊になり、平将門がスケールの大きな合戦の果てに敗れて怨霊になったのに比べて、崇徳天皇は皇位を巡る確執の果てとはいえ基本的には「家庭の問題」で敗れて怨霊への道を進んだというのは、話としては小粒である。
身分が高いほど瑣末な問題が大問題になってしまうのだろうか。
まあ、鳥羽天皇にして見れば祖父が自分の妻と不倫したというのは「えげつない」話ではあるが、一般庶民の家庭で同じことが起きたとしても大変な話に違いない。この点、皇室であろうが普通の家であろうが関係ないだろう。
鳥羽上皇は間違いなく自分の子である皇子が誕生すると崇徳天皇に圧力をかけて譲位を迫った。これが御年3歳で即位した近衛天皇であるが、在位14年17歳で眼病のため崩御した。
(注・眼の病気で死んだというのが良く分からない。恐らく「眼が見えなくなって死に至った」ということか。ひょっとしたら脳腫瘍だったかもしれないが、ただ単に病弱だっただけということもあり得て、私の史料では判断がつかないのである)
近衛天皇の夭折で崇徳上皇は喜んだに違いない。これで自分の子供である重仁親王が即位すると思ったからである。
ところが、ここでまた鳥羽法皇の横槍が入った。
誰もが「こいつだけは天皇になることはない」と思っていた雅仁親王が即位して後白河天皇になったのである。
即位以前の後白河さんの評判は散々であった。
そもそも鳥羽法皇自身が「あいつは天皇の器ではない」と言い切っていたし、九条兼実は「不徳の君」と蔑んでいた。信西など「和漢の間、比類少き暗主」(日本と中国を探し回ってもこれほどの馬鹿はいない)と言っていたのである。
後白河さんの「悪行」で有名なのは「今様が好き」だったということ。
朝から晩まで何日も歌い明かして過ごした上、身分の低い者たち(一般民衆や芸人たち)とも分け隔てなく交流していた。つまり気さくな人だったのだ。現代風に言えば「伝統的な短歌を作らず、カラオケで演歌を歌いまくって遊び呆けていた」人だったのだな。
しかし、たったこれだけのことでみんなからボロカスに言われたりするものだろうか?
私はもうひとつ、普通の人とは違う性向があったからではないかと考えている。
どうも後白河という人はガールフレンドよりもボーイフレンドのほうが好きだったらしい。
ここが問題だったのだろう。
こんな奴が天皇になるわけないから自分の子供が即位できると崇徳上皇は喜んだはずだが、鳥羽法皇に阻まれてしまった。
「またか。。。」
崇徳上皇の心中いかばかりか。
また鳥羽法皇の情念も凄まじい。
「叔父子」の崇徳天皇が憎いだけではなく、その子供まで「絶対に天皇にはしない」と強権を振るったのであるから。
こうしてまたもや鬱屈した崇徳上皇は後白河天皇が即位した翌年、鳥羽法皇が崩御するとついに爆発して保元の乱というクーデターを起こしてしまう。
これも実際はクーデター未遂で、あっさりと鎮圧されてしまった。
でもって、讃岐に流されて幽閉されてしまう。
そのまま世を恨み、荒んだ生活をして晩年は悶えていたという。
その心中を察すれば、
「何でなんや~、いつもいつも苛められて退位はさせられるわ、子供は即位させてもらえないわ、何であんな今様狂いのホモの変態野郎が天皇になるんやああああああああああああああああああ」
内向的な人が鬱屈した挙句に爆発して挫折した。
もう怨霊になるしかないか。
政敵が続けざまに死亡、大火、疫病発生、各地に戦乱発生、武家が台頭し皇室失墜。崇徳天皇の怨霊の仕業とされている出来事はこんなにある。その「活躍」は『雨月物語』の中にも出てくる。
ところが。。。
時代が下がるとマイナーになってくるようである。
落語に「崇徳院」というのがある。
百人一首にもある崇徳天皇の
「瀬を早み岩にせかるる滝川のわれても末に逢わむとぞ思う」
という短歌を手がかりに主人公が若旦那の恋する人を探しまくる話である。
その中に「崇徳院の怨霊」という事は出てこない。
つまりこの落語が作られた頃には崇徳天皇の怨霊というのはもう誰もあまり気にしなくなっていたのではないか。
皇位は奪われ流罪にはなり、怨霊になった後も落語のネタにされる。
崇徳天皇。どこまでも不遇な人かもしれない。
【言っておきたい古都がある・113】