悪霊だらけ(その8)
~怨霊から学問の神様へ~
ご存知の通り、菅原道真=天神といえば今では学問の神様である。
そしていつの間にやら北野天満宮は入学試験にご利益があるというので受験生で賑わう神社になった。
かく言う私も高校生のとき親に連れられて大学受験のお参りに来た。
ご祈祷を受けて絵馬を描き、それを吊ろうとしたとき、ちゃんと引っ掛けたはずなのに、その絵馬がポトンと下に落ちたのである。
「こらあかんで」と、親子で大笑い。
私が浪人したのは言うまでもない。
これほど霊験あらたかな神社なのだが、近年は入学試験だけではなく、就職試験、司法試験、資格試験、各種検定試験と、あらゆる試験を目指す人たちがお参りに来るらしい。
これでは神様も忙しくて、とても全部は面倒見切れないだろう。
しかし、どうして道真は怨霊から学問の神様へと華麗なる転身を遂げたのだろうか?
前回までで書いて来たように、「道真の怨霊」の正体は醍醐天皇と藤原時平の路線に反対する貴族たちであった(この連載で不明な部分は私が毎週日曜日にやっている「京都ミステリー紀行・東山編」で詳しく解説している)。
醍醐天皇に退位を促すための方便が「怨霊」だったということ。
ということは、醍醐帝が退いて幼少の新天皇が即位し、守旧派が摂政になって政治の実権を握れば、それで「怨霊」は用済みということになる。
しかし、今まで散々「怨霊、怨霊」と言ってきて、いきなり「もう怨霊ではありません」というわけにもいかない。長年に亘る「宣伝」で「道真の怨霊」というのはすっかり定着してしまっている。
そこで誰の目にも分かる形で「もう怨霊ではありません」ということを示す必要があったのだ。
醍醐天皇が亡くなり、藤原忠平が摂政の地位に就いて「怨霊」の役割は終った。
だが忠平の時代というのはわりと社会が乱れているのである。
有名な平将門と藤原純友の乱もこの人の時代に起きている。
関東と瀬戸内で朝廷の権力に従わない者たちが出てきた。
そもそも平将門は忠平の家人として仕えていた時期があったし、藤原純友は忠平の従兄弟の子である。つまり自分の使用人と遠い親戚から反旗を翻されたということ。
忠平というのはあまり立派な人ではなかったのではないか。
これだけ大きな騒乱があったのだから、これも「道真の祟り」と言われても良いようなものなのに、誰も何も言ってない。
だいたい、将門の乱を鎮圧するために朝廷=忠平政権は藤原忠文を征夷大将軍に任じて派遣したが、その「官軍」が到着する前に将門は藤原秀郷によって倒されてしまった。
「悪者を退治するために行ってきまーす」と張り切って軍隊を送り出したのに、行ったら戦争は終っていたと。
これって、かっこ悪くないですか。
この乱の後、色々な騒擾事件、武者間の争いによる武力行使事件、郡司・百姓が都に上って国司を訴える事件が増加していった。
忠平の政権下、社会は決して安定していたとは言えないだろう。
さて、こうなると道真がいつまでも怨霊では困るのである。
朝廷=藤原氏の政権に恨みを持って数々の天変地異を起こしたとされる菅原道真が「反体制のシンボル」に祀り上げられては具合が悪い。
確かに、道真は延喜23年(923)に右大臣に復位して形式上は名誉回復したが、この7年後に醍醐天皇が亡くなるまで「怨霊」としては健在だった。体制批判の方便として利用される可能性は無いとはいえない。
そこで天暦元年(947)に北野天満宮が作られた。「道真はもう怨霊ではない」ということを目に見える形で示したのである。
忠平はこの2年後に死んだ。つまり、死期を悟った忠平が息子である師輔の時代になって災いの種になるような「怨霊」を名実ともに封じ込めたわけだ。
で、「天神さん」がこのときに「学問の神様」になったのなら面白いのだが、残念ながらそれは江戸時代に入ってからのようである。(中々コラムの都合の良いようにはならない)
かくして、菅原道真は時代を隔てて「怨霊」から「学問の神様」へと「華麗なる転身」を遂げたわけである。
こんなもの、道真本人は全くあずかり知らぬことだろう。あの世の道真からして見れば、自分を都合よく利用する生きた人間こそが悪霊だろう。
しかしまあ、現代でも天神さんとして親しまれているのだからそれで良しとするか。北野天満宮だって、「怨霊を祀っている」よりは「学問の神様を祀っている」ほうが良いのに決まってる。
「本来は怨霊を祀っていたのだ」と堅い事を言う人もいるけど、別に「今は学問の神様だ」で良いのである。
怨霊を鎮める神社が学問の神社になった。それは政権の都合に合わせた「国の神社」から「民衆の神社」になったということである。目出度いではないか。
ところで、本稿でも言及した平将門も「怨霊」になったとされている。
なので次回は「将門の怨霊」を取り上げることにする。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・108】