悪霊だらけ(その5)
~往生際が悪かった~
さて、前回で見たとおり、菅原道真の左遷には讒言だけではなく、本人の自己責任の部分も大きかった。決して一方的に理不尽な措置を取られたわけではない。政権を担当すること10年、道真にだって奢り昂ぶりからくる脇の甘さも出ていたのだ。
それでも、今風に言えば総理大臣が大宰府の首長になったようなもののだから、落胆は大きかっただろう。
道真の有名な短歌
こちふかば匂ひをこせよ梅の花あるじなしとて春をわするな
を読めば、何となく諦めて都を去ったのかなと思ってしまうのだが、これとは別の短歌も残っている。
流れゆくわれは水屑となりはてぬ君しがらみとなりてとどめよ
「君」というのは宇多上皇のこと。「しがらみ」は川の流れを堰き止めるための柵。
つまり「私は大宰府に流されて行きます。どうか上皇がしがらみとなってそれを止めてください」という意味である。
道真は宇多上皇が乗り出して自分の左遷を撤回してくれるのを期待していた。
実際、その可能性はあったのである。
道真左遷の知らせを聞いた宇多上皇は醍醐天皇に会おうとした。間違いなく、翻意させるつもりだったのである。
ところが藤原時平が手勢を繰り出して御所の門を固め、宇多上皇の牛車を中に入れさせなかったのだ。完全なる実力行使。
両者はかなり長いこと睨み合いを続けていたようだが、結局、宇多上皇が諦めて引き返した。
時平がこのような「暴挙」に出たのは、もし上皇が醍醐天皇と対面すれば、醍醐帝が説得されて道真の辞令を撤回するかもしれなかったから。
道真の追い落としは時平にとっても命がけだったに違いない。失敗すれば今度は時平の首のほうが危ないのだから。
やはり道真は権力者。時平も薄氷を踏む思いだったろうな。
一方、大宰府へと旅立った道真も決して諦めたわけではないようだ。旅の途中でも都への未練が残っている。
君が住む宿のこずえをゆくゆくと隠るるまでもかへりみしやは
という短歌も詠んでおり、「上皇のお住まいの木立の梢が見えなくなるまで、何度も振り返って見ていました」と言っている。
「あ、都が遠ざかる~」と何度も何度も振り返っていたと。そして「辞令はまだ撤回されないのか」と思ってたのだろう。
しかも出発して山崎まで来たとき、「ここで出家しちゃおうかな~」なんて言ったりして、引き伸ばしを図っているのではないかと思わせる。
ようやく大宰府まで来ても、
山わかれ飛び行く雲の帰り来る影見るときはなをたのまれぬ
という短歌を詠んでいる。山の向こうに飛び去っていく雲がまた帰ってくるように、自分の都へ帰れるだろうか。このように、とことん帰りたかったのである。
道真は「こちふかば」のように決して達観してはいなかった。けっこう往生際が悪かったのである。
もっとも、このぐらいの執着がなくては怨霊にはなれないだろうけど。
ただ、「左遷左遷」とみんな軽く言うけれど、その当時の大宰府というのは決して悪いところではなかった。
当時の大宰府は大陸への玄関口で、いわゆる国際都市だったのである。そこに外国からの特産物も集まっていた。
古典を読むとよく「唐物」という言葉が出てくる。言葉に惑わされてこれは「中国の産品」だと思いがちだが、実際は中国だけではなくインドやペルシャの物産もあった。ギリシャだってあったかもしれない。
つまり「唐物」というのは今で言う「舶来ブランド品」のこと。だから大宰府の責任者になればその利権でかなり私腹が肥やせたのである。ちょうど江戸時代に「長崎奉行を一期務めれば蔵が建つ」と言われたようなものである。
『栄華物語』の「巻第十二」に、前任者が辞任して大宰府のこのポストが空いたとき、
「われもわれもと望みののしりける」
と書かれている。つまり「なりたい!」と言う人が殺到した。
それほど「美味しい」ポストだったのである。
だから道真もめげることはなかった。地位を利用してちゃっかり稼げばよかったのだ。その財力を背景に都復帰への政界工作をすれば良かったのではないのかと、私などは不謹慎にも思ってしまうのである。
まあしかし、それは年齢的に厳しかったのかもしれない。
大宰府に来て二年後、道真は57歳で死んだ。
そして怨霊になって京都に帰るのだが。。。
ここがちょっと厄介なのである。
(来週に続く)
【言っておきたい古都がある・105】