世界 WORLD 2
めでたく5周年を迎えた陰では
今だから言える危機も経験した
先号でも既報のとおり、先頃、同店はめでたく5周年を迎えた。その節目に際して大幅なリニューアルを施しているが、それはメインフロアに関するものではない。「祇園からでも利用客を呼べるように、クラブとしての居心地の良さを優先した」と言うように、バースペースやVIPルームなど、ステージや多くのオーディエンスの居場所には、さほどダイレクトに干渉する場所ではない。「ライヴをできるハコ」として、思うこともたくさんある。プロデューサーの中本幸一氏が語る「サウンドシステムにしても(ライヴとDJイベントでは)似て否なるものではありますけれど、どちらの面も持っていないといけない。というか、そもそも居抜きでステージを組んだだけなわけですし、DJブースすら左右対称にできていないし。大所帯(のバンドなり出演者)になると、(ステージや機材的な意味の)バックヤードも必要ですし。本当はね、ライヴももっとバンバンやりたいんです。それこそ大阪の『リキッドルーム』をライバルとして、名乗りを上げたいぐらいなんです」という気持ちがあっても、である。サウンドシステムやステージという「イクイップメント」ではなく、ラウンジやソファという「特別な居心地」を優先した。その理由は、これまでの5年におけるプロセスが影響しているような気がするのだ。
順風満帆のよう、に見える。だが「オープンした当初は、『次の月には潰れるかな…』と本気で思ってました」という。よく聞く話ではあるが、それだけではなかった。とは言いながらも、軌道に乗せたことは間違いない。それでも、今だから言える(本当は言いたくないのかもしれないが書いてしまう)危機もあった。
危うく燃えつきるところだった
何とか火を消したのは美学だった
「3年経った頃が危なかったんです。何もかも忘れてしまうかのように、脇目もふらずに走り続けて3年経って、ホッとして気が緩んでしまったのかもしれない。売り上げを落としたんですね」。流暢に言葉を紡ぐ中本氏なのだが、このころの話になると言葉が出ない。何度も思い出すように考えて、ようやく話が続く。「大阪ではDJのクオリティを期待されているわけではないんですね。店そのもののブランド力があったということもありますが、『夜遊びの場所にクラブを選んでいるだけ』なんです。だから大阪のコネクションで、大阪から出演者を呼んでやれば人は入るやろう、と。大阪の鋳型に京都という街をはめれば何とかなるやろうという勘違いをしていた。京都には京都のマーケットがあることを知らなかった」。実際、3年間はその方法論で苦労はしなかった。だがそのとき、実は継続まで危ぶまれる危機に面していた。「確かに怠惰だったし、プラスアルファの努力をしなかったんですが、結果的にちょっとした『燃えつき症候群』になったのかもしれません。そういう状態になると隣の芝が青く見えてきたりして、『やっぱり東京なのかな』とか、そういうことも考え出して」。組織のトップがそういうことを考え出すと、組織の2番手、3番手にも伝播・感染して いく。孤独をヒシヒシと感じるようにもなった。常々「終わるなら派手に終わろう」と思っていた。そこまで決意するところまで来ていた。
結果的に救われたのは、プライドだったとも思う。プライドと美学は同義だ。下がり調子で終わることを、美学が許さなかった。独りだった分、割り切ることもできた。「自分はまだ何も生み出していない。底力を見せてやる」。外的理由からも、内的理由からも、吹いていたのは逆風で、その逆風がオープン当時を思い出させた。意気込みだけで書いた企画書もあった。次の月は潰れているかもしれないと本気で思った。それを乗り越えてきた記憶が、かろうじて同店を救ったと言える。
正しい「大切にする」という行動は
予想以上の効果を伴って人に響く
その危機を越えたことで、変わったことがある。ブッキングラインである。無論、誰の手によるものであっても均一な仕事というのはベストであるが、それが組織である以上、担当する人物によってある程度のブレは出る。許容範囲内のブレであるならば、それは個性として褒め称えられるものにすらなる。
3年目からは、ローカルを大切にするようになった。厳密に言えば、ローカルを大切にする方法が変わった。京都には京都のマーケットがあることを知ったからだ。大阪という街でのローカルの大切にする方法を踏襲してきたが、それだけで走れる時期は終わったのだ。もとより同店が京都にあることや、木屋町にあることについては武器も弱点も知っていたわけである。店名が漢字であることもそうだし、それが例え物理的な理由であったとしても、中本氏はもっとがっつり絡んでいきたいと思っていたとしても、さまざまな理由から「木屋町にいながら、木屋町とこれだけ一線を引いて仕事ができるのは凄い」と頂戴する評もそのひとつだ。その根本が変わった。それを言葉にするのは難しいのだが、「地方でレギュラーイベントをやると飽きられる」。いつの頃からかは解らないが、そんな風評がある。縛られていたわけではないが、その風評を知らなかったわけでもない。それを、気にするのをやめた。
具体的な事例が、大沢伸一のレギュラーイベントだ。元来「頑なにレギュラーはやらない」で有名な人物である。その大沢伸一が同店でレギュラー始めたのである。その翻意を生んだもの、それが同店の「ローカルに対する気持ちや思い入れの変化の度合い」であったろう。ギリギリ、言葉にできる範囲を書けばそういうことになるのだと思われる。東京まで出向き、三顧の礼で交渉を続けたことが「大切にする行動」で、それに応えようという予想を超えた行動を生んだのだ。
好転が好転を呼び込む、その理由は
「人生、ラッキースパイラル(笑)」
不思議なもので、宗旨変えをしたら、京都以外からのオーディエンスが増えた。それがライヴであれDJイベントであれ、同店における500名クラスの動員を数えるものでは、およそ5割が京都以外からであるという。
「これも先の話で、大阪だとゲストが外タレだろうとビッグネームだろうと、あまり関係なく来るんですね。いわゆる『たまたま(その日にイベントに来ていた)派』というのが多い。ところが京都の場合はスケジュールや、出演者の名前を必ずチェックしてから来る」。最近ではそのセオリーに変化があるという。「大阪から、スケジュールをチェックして来る人が多くなったんです」。「たまたま派に比して、これは「わざわざ派」である。それが多くなったということは、京都のセオリーが大阪に伝染しているということに他ならない。
「フライヤーを阪神エリアにも撒き続けたのが効いたのかどうかは解りませんが…」。ともあれ、もとより京都だけでビジネスをしようと思っていたわけでなく、それどころか他都市からも集客を狙っていて、常に他都市との違いを意識してきた同店である。ここへ来て、それが叶いつつある。
大沢伸一に限らず「ロケットマン(ふかわりょう)」「TEI TOWA」「Emma」「KEN ISHII」…、シーンのトップにいる人間が、隔月ででも訪れるようになった。「そういう人たちがウチのステージに立つと『どうして京都で?』ということになるんでしょうけどね(笑)」。歯に衣着せずに言えば、それは「どうして京都なんかで?」という失礼な疑問でもあるわけで、「誰もが意気に感じて」という一言では片づくまいが、変化の陰にはそれなりの理由があるものだ。それもいずれは伝わるだろう。「僕の人生はどこまでも続くラッキースパイラルですから(笑)」。
本誌では何度もご紹介してきた昨年の大イベント「FPM 10」や、今年の「kmf 2006(別頁参照)」のメイン会場としても名を連ね、「野宮マキ」「m-flo」「SILVA」といった、総じて言えば、中でもポピュラリティのあるゲストがこの「世界WORLD」でプレイしている。面白いことに、彼ら、彼女らのステージは、DJシステムを使うものの形としてはライヴに近い。
コンサートホールから始まるか
ディスコを起点にするものか
「ライヴハウスとは?」という質問をぶつけてみると、面白い答えが返ってきた。「ライヴハウスとクラブの比較になりますけど、元を正せば『コンサートホール』と『ディスコ』になると思うんですよ。営業時間も違うわけで、要はオールナイトかそうじゃないか」。これもなかなか的確である。というか、少し考えれば解るのだが、木を見て森を見ないと見失いがちな事実だ。「ただ、世間では分け方もあるのでしょうけれど、店としては僕は『同じでしょう?』と。オールナイトをやりだしているライヴハウスもありますけど、すごく近い存在なのに(そういう業態が)確立していないだけで。『m-flo』のイベントをしたときに、普段はライヴハウスなりコンサート会場に行ってる人なんでしょうね、その人から『クラブって一人で行けるとこなんでしょうか?』という問い合わせが本気で入るぐらいですから(笑)。ライヴハウスに比べるとクラブは怖いイメージはあるんでしょう。だから、両方を完璧にこなせる店ができたら伝説になると思う」。これからハコをつくるなら、そんな店をつくりたいと言う。大沢伸一は「これからのDJイベントは、どんどんライヴセットになっていくだろう」という感想を述べている。ハコとして、ライヴができるイクイップメントが必要になってくるということで、ライヴハウスとクラブの境目が消えていくということでもある。
どちらでもあるべきだと思うから
ここには必ず「音楽」がある
色んな「派」を取り込んで、同店はある。それがライヴであってもイベントであっても、その屋台骨は変わらない。だからこれから望めることもある。「幸田来來」が来るならば、「大塚愛」や「矢井田瞳」や「aiko」を呼んでみても良いと思うのだ。それが来年でも、再来年でも構わない。5周年を機に行ったリニューアルを、6周年、7周年ではサウンドシステムに振って、その上で今の軸をブラさずにローカルを考えれば、ハコの実力を思えば全く可能だろう。「確かに、夢はナンボでも広がりますけど(笑)。確かに、5周年のイベントには『Misia』を呼ぶという案もあったんです。『掟破りの入場タダ』か、『Misia』かで迷った。でも億単位の興行をする人を呼ぶと、ギャランティの件も含めてハコのサイズと心のサイズが合わないんです(笑)」。結果、前者が採択された。
今はブッキングについても自分の好みには蓋をして、「イケイケどんどん!」が信条。「第一にお客さんの笑顔とテンション」であって、オーディエンスを喜ばせるためなら何でもやる。フロアーの最前線で踊り狂う、DJにテキーラを飲ませてみる。まわりがヒヤヒヤするぐらいに、やり過ぎなほどにやっている。その形は京都、とりわけ木屋町的であるかもしれない。だが「最前線から一歩下がりたい」と思う気持ちがどこかにあっても、フライヤーを自ら街でまくことも含めて「現場を忘れては終わりだ」という薫陶と指針を信じて続けてきた。苦労を共にした、いや、自分の苦労を分かち合ってくれた人たちが、京都に来たときに会いに来てくれる。土地はどうあれ、マイナーからメジャーに上がっていったミュージシャンと、ライヴハウスの関係と同じだ。
そしていつか、それなりの用意をして、次なるリニューアルが成ったとき、そのときは、こけら落としには個人的に大好きな「DAFT PUNK」を呼べたら素敵だ。そう思っている。世間の評は、ライヴハウスではないかもしれないが、ここにはきっと、音楽がある。