WHOOPEE’S 1

L字のフロアを持つ、珍しい一軒は、
20年前に、こんな経緯で誕生した。
 「ウーピーズさんは良い感じにライヴハウスのイメージができはりましたよねぇ」。同コーナーを続けるうち、他のライヴハウスで聞いた同店への感想である。メロコアやハードコア、京都、もしくは近県のライヴハウスの中でも、位置付け、立ち位置が確立しているというのである。ライヴハウスとして迷いがない、という意味に受け取った。
 さて、その「WHOOPEE’S」。同店のステージに立つと、目の前に見えるのはPAブース。しかもブースを囲むガラスまで、ほとんど距離がない。L字型のフロアの角部分にステージを据えるという独特の配置は、他に例を見ない。正直、ライヴハウスの導線としての使い勝手は、決して良いとは思えない。
 このライヴハウスが誕生したのはおよそ20年前。同地の地上に建つホテル「ユーズヤサカ」と同時に完成した。ご存じの読者も多いと思われるが、難波や須磨、名古屋など、10軒ほど同名のホテルが全国にあり、この「WHOOPEE’S」も、実は同名で同系列の店がもう一軒あった。経営陣が音楽好きであり、「ホテルの地下にあるレストランバー、もしくはラウンジ」というのが同店誕生時の役割であった。ハウスバンドを雇い入れ、ホテルの宿泊客や利用客に、レストランで食事を提供しつつ、生のBGMを聴かせる。一時などは、ホテルの宿泊客のために、部屋にいながらライヴを観れるように、各部屋に中継までしていたそうだ。ともあれ同店のステージや席の配置は、そういった用途のもとに考えられたものなのである。元来、いわゆるライヴハウス目的での設計はされていないのだ。オープン当初の景気は今さらに語るまでもない。バブル期である。素材がフェイクであろうと本物だろうと金銀に大理石がふんだんにあしらわれた店が多かった時代である。ディスコは全盛、ファンクサウンドがメインストリームという時代であった。
「儲からんけど、損はないやろう」
ブッキングは手探りで始まった。

 先述のような理由で、抱えたハウスバンドはソウルや、当時で言うブラックコンテンポラリー、通称ブラコンを聴かせ、一日に3~4回のステージをこなしていた。ところが如何せん、店自体に客が入らない。同店のオープン直後から店を預かった片山氏に話を聞く。名字よりも「エディ」という名前の方が通りが良いかもしれない。それまではディスコ畑を歩んできた人物である。エディ氏は笑いながら言う。「別に引き抜かれたとかそんな格好の良いもんじゃなくて、食い詰めてたから募集を見て行っただけ(笑)」。当時の自身の状況を「グダグダになってる、蛭子能収のマンガみたいな感じですよ」と言ってまた笑う。むろん、今だから笑えるのだと思うが、ディスコ畑出身であると同時に、自らバンド経験もあり、バンドがチケットを売り、ライヴハウスに支払ったレンタルフィーから歩合に応じてバンドにギャラを支払うという、チャージバックというシステムは知っていた。客の入りにかかわらず、ハウスバンドに支払うギャラは容赦なく発生する。それよりも広くバンドを募集して、様々なライヴを日によって行う方が良くはないか? 「儲からんけど、損はないやろう、と」。そんな経緯で同店はライヴハウスの性格を濃くしていったのである。
歌謡曲とバンドブームとの狭間で
骨のあるバンドがいた時代があった。

 チャージバックは知っていても、それは出演する側としての知識であり、いわゆる「ブッキング」というバンドを招聘する知識はない。独学でバンドを集めて、手探りでの再出発であった。’80年代の中頃、集ってきたバンドはレベッカやボウイのコピーバンドが多かった。エディ氏が言う「ちょっとしたGSブーム」もあった。グループサウンズそのものではないが、少し名の売れたところでは「ストライクス」などが同店に訪れている。「コレクターズ」「ピロウズ」「シェイクス」…、確かにバンドブームの到来まで、しばらく待たねばならなかった当時、骨のあるバンドがいくつかあった。歌謡曲からバンドブームの過渡期にあって、残念ながら大きなムーブメントにはならなかったが良いバンドが多かった。「コレクターズは来なかったなぁ。でもスペシャルズのコピーをやってる『タウンボーイズ』ってのはなかなか良いバンドやった」。エディ氏の回想である。
それはメトロが生まれる前の話。
クラブカルチャーを支えていた。
 「レゲエやってぇな」。ある時、エディ氏は友人にこう持ちかけられる。「レゲエやってと言われても、『レコードかけといたらえぇの?』『そもそも日本人でできるヤツいんの?』という感じ。ただクラブってもんが当時なかったから、レコードをかけて、DJが主張するイベントは良いと思った。『東京はこういう感じになってんで』というのもあったし」。ディスコを経験した者から言えば「(決まった曲をかけるだけの)ディスコでDJは面白くないねん」となる。ディスコティックではできないこと。それはDJが主張することであった。ヒップホップと呼ばれる以前、ラップという言葉で紹介され、「AEROSMITH」の「WALK THIS WAY」をラップでカヴァーした「RUN DMC」あたりが流行りだした時期でもあった。「あんなんやったらステージにターンテーブル2台でできるやん、と(笑)。誰も踊るヤツはおらへんかったけどね。レコードをかけたがってるヤツは多かった」。ディスコからクラブへの過渡期よりもさらに前、同店の性格のひとつが、この頃に見て取れる。
 「ライヴハウスだけというと暗いイメージがしてね。音楽だけ聴いてて、着るものも気にせずに、街遊びしないような人間ばっかりが集まるのもイヤやったから。遊んだはる人は『今のこと』が好きでしょ。ディスコに行ってはる人にも『こんなんもありますよ』と。でもそうやって気張ったのは5~6年かな。バンドブームとかいうのが来たから。仕事は仕事として、現金が入るハコ貸しで良いわけで(笑)」。ドレスコードが必要だった、ディスコが最も輝いていた時代を知るエディ氏は、京都において、同店でクラブスタイルの先駆となった。だがバンドブームの到来で、ライヴハウスは軌道に乗った。と、同時にエディ氏は一歩下がったスタンスを取り始めたのではないか。声のトーンがそう思わせる。

スカパラ・フリッパーズ…
メインストリームではないライン。

 「東京スカパラダイスオーケストラ」を呼んだのは、恐らく京都で初めてだった。ブッキングに関しては、今も「受動的」とスタッフが反省するのが同店の面白いところでもある。スカパラも「誰かが呼んでくれたから(笑)。『スカフレイムス』とどっちがどやねん?とも思ったけど(笑)」という感じなのである。常連や身近な愛好者が勝手にブッキングしてくれる。恵まれた状況が続いた。先のGSブームではないが、このライヴハウスにはメインストリームではないが、粋なジャンルのバンドのライヴが多かったようだ。バンドブーム華やかな頃ではあったが、「ロンドンナイト」と呼ばれるライヴイベントが盛況だった。これも恐らく京都では初めてのイベントタイトルだったという。「ロックで踊りたい人もいるわけでね」。台風の日に200~300人を動員したこともある。確かに、当時オピニオンリーダー的な若者の間ではちょっとしたモッズムーヴメントにはまる者もいた。ヴェスパにミニ、カスタムしたフォルクスワーゲンビートル=バグ…。モッズコートを羽織って「THE WHO」や「The Clash」を聴く。’90年代にさしかかるかどうかという頃。同じように一部の若者たちがはまったネオ・アコースティック。「アズテック カメラ」や「ビューティフルサウス」といった、イギリスから出てきた爽やかなアンダーグラウンドとでも言うようなサウンドがあった。日本でこのネオアコを体現したのが「フリッパーズギター」である。小山田圭吾と小沢健二によるユニットは、後に日本中を席巻する、いわゆる渋谷系の最も最初の形である。半年後にデビューを控えた彼らがライヴをしたときも、「勝手に来た(笑)。昼間やったと思う。昼間の方が安かったからかなぁ」というエディ氏の述懐なのである。「今度デビューするんや。スゴイねぇ。立派やなぁ。粋やなぁ。そんな感想でしたね。本当に、彼らは貧乏くさくなかった」。このあたりの感想が、エディ氏、ひいては同店の譲れない部分というか、標榜した性格のように思える。先述の「音楽だけ聴いてて、着るものも気にせずに、街遊びしないような人間ばっかりが集まるのもイヤやった」という価値観を、見事に貫いて見せている。そしてメインストリームから少し外れたバンドたちを登用すること。これも今に続く同店の性格、もはや役割と言えるだろう。

ハードコア・メロコア、ジャンプコア。
’90年代から続く、このハコの主軸。

 ’90年代も半ばにさしかかった頃、この「少し外れていた」のがハードコア、メロコアというジャンルである。’70年代後半から’80年始めにかけて興ったパンクムーヴメントの進化型と言うと少し語弊があるが、「ハイスタンダード」などがその代表的な例である。その「ハイスタンダード」のライヴが実現した時には、客から「ホンマに来るんですか!?」と確認の電話が入ったほど、知る者には信じられないブッキングである。だが今ではお馴染みなこのバンドも、当時はもちろんメジャーな存在ではなかった。むしろ「ライヴ行ったら犯される、とかね(笑)」そんなイメージで語られることもあったぐらいだ。
 ともあれ、以来このジャンルのバンドのメッカとも言えるライヴハウスが同店であり、今でもこの手のライヴやイベントは多い。文頭の「良い感じのライヴハウスのイメージ」というのは、おそらくこれだろう。何故、同店にこのカラーができたのか。エディ氏は言う。「規制が緩かったからじゃないですか。他は規制が多いでしょ?時間とか音量とか。ライヴハウスとしては新興勢力なので、フレンドリーだったと思います」。
 出演するバンドについても、相変わらず「バンドマンが勝手に次を呼んでくれるし、イベントをする女の子が増えたし」という状況で、身近な人間がブッキングをするというケースが多かった。全ては自然発生的に続いていったのである。
 「ハイスタが来たときは僕は外で警備してました(笑)」「8~9年前かなぁ。『ギターウルフ』が来た時はしんどかった。フルボリュームの殺人サウンド? 8分間ぐらい『マシンガン~っ』しか言わへんにゃもん(笑)」。この頃になるとエディ氏は、さらに一歩も二歩も離れたスタンスを取っていたのだろうか。ちょうどこの頃、現在の同店を支えるメインスタッフが次々と加わりだしている。
 「もぅ解らん。好きにやれ(笑)」。そして先頃、エディ氏は後進に道を譲り、同店を離れた。
…to be continued