We Got Our MOJO Starting 2

 「LEGEND」。ボブ・マーリィのベスト盤にはこの言葉が使われている。老いも若きも、レゲエを囓った事のある人間ならば、必ず一度は耳にしたことがある一枚だろう。「I SHOT THE SHERIFF」をカヴァーしたかのエリック・クラプトンが後にインタビューに対し、「ラスタファリであるボブよりも上手く、僕がレゲエを歌える訳がないだろう?」と答えたという。誰もが認めるオーソリティ、偉大なアーティストに相応しい言葉だ。 話を元に戻す。この「LEGEND」という言葉、安易に邦訳する「伝説」という日本語では、今ひとつピンと来ない。日本語では表しきれない重みを持つ。
 先の号で既報の「京大西部講堂」。この京大西部講堂にて狼煙が上がったムーブメント。そこに含まれる数々の逸話。ここでは逆に、安易な英訳「エピソード」では物足りない日本語の機微がある。その「逸話」にこそ、この「LEGEND」という言葉を使いたい。

 だが、その一つひとつを闇雲に羅列していくのは難しい。リアルタイムでその様子を見た目は概ね、今や齢50を越えるものばかりだ。30年前と現在とを、単純比較するのも難しい。いや、彼我の差を論ずるのはむしろ意味がない。
 既報のMOJO WEST、オープニング・イベントのライナー。先月に続き、3日目の大野真澄氏と初日のデイブ平尾氏のライナーをピックアップした。 ’70年の初頭である。MOJO WESTなどに象徴されるロック・ムーブメントが下火になり、フォークとロックが合体したニューミュージックが次々、登場してくる。z

 アリス、アルフィー、チャゲ&飛鳥などヒット・チャートの上位を独占する。その中に大野真澄のガロも鈴木康博のオフ・コースもいた。私はこの日本のポップスの潮流に疑問を感じていた。
 アマチュア・バンドとしてプレイしていた時は退屈な芸能界や歌謡曲に対してアンチであった。バラエティに出ないことがカッコよかった。オリジナルを唄い、メッセージを発信する。そんなスタイルが若者たちにうけたのである。やがて、そんな事象をビジネス的に咀嚼し、戦略化する芸能プロダクションがでてくるようになる。

 好きな事、やりたい事、カッコいい事を始めたはずのアマチュアリズムが巨大ビジネスに呑み込まれてゆく。内容はどうでもいい金儲けに成功したグループを業界は絶賛する。メディアも過大評価し時代の寵児としてもてはやす。それに答えようと、どんどん受けるものを探すようになる。
 ポップスとは大衆音楽とはそのアマチュアリズムがもつ自由の精神に支えられていたのではなかったのか、そして解りやすく、誰でも気楽にプレイできるカッコいいミュージックのはずではなかったのか。

 それがプロといわれる芸能プロデューサーや商売人の手にかかり方向を誤ることになる。どうやら大野真澄も鈴木康博もそんな芸能界にはまってゆく自分が厭になったらしい。売れれば売れる程、マーケティングという実体のない化物に何もかもが左右され、ただヒットすればいいという環境につつまれる。
 「君に投資したお金はいくらになると思ってるんだ。やめたければ、今すぐ二百万円を持ってきて清算しろ!」
 二十そこそこの青年に敏腕と恐れられる芸能界のプロデューサーが迫るのである。ガロの大野真澄は金がなかったので泣き寝入り、オフコースの鈴木康博は清算したらしい。

 やがてガロも空中分解、芸能界に棄てられることになる。その代償に、芸能界的束縛から解放され自由に好きなポップスがやれるようになる。
 ’60年代のアメリカはカッコよかったエルビスからウッドストックまでアメリカのポップス、すなわちロックの洗礼を浴びた大野真澄と鈴木康博は、どんなミュージシャンとしての活動を展開してゆくのか愉しみである。近い将来、元ガロの、元オフコースのとういう肩書きなしで歩きだした時にこそ俗にいう芸能界から独立することになる。
〈text by Kimura Hideki featuring April 27th「大野真澄と田中あきら 飛び入り、オフコースの鈴木康博」〉

 アルフィー、チャゲ&飛鳥、オフコースという名ならば、聞き覚えのある読者の方も多いだろう。オフコースのヴォーカルは小田和正である。
 このライナーの時代観は、先月既報ののミッキーカーチス氏のそれに続いている。正に現代のエンターテインメント業界が内包する長所と短所が、この時代にすでに大きな歪みになっていたことが知れる。
 「『君に投資したお金はいくらになると思ってるんだ。やめたければ、今すぐ二百万円を持ってきて清算しろ!』。二十そこそこの青年に敏腕と恐れられる芸能界のプロデューサーが迫るのである。ガロの大野真澄は金がなかったので泣き寝入り、オフコースの鈴木康博は清算したらしい」
 強烈である。生臭さすら漂う。芸能界という怪物の姿である。

 一昔前なら、プロダクションの都合でバンドのメンバーチェンジは日常茶飯事、ソロでデビューさせるためにフロントマンを一本釣り…。「デビュー」の文字をチラつかせ、スカウトが津々浦々の青田を買う。大手プロダクションからのデビューを勝ち取れば、プロモーションという名のプロパガンダが待つ。先行投資は億の単位を数え、巨大なビジネスが動き出す。用意された曲を歌うならまだいい。葛藤も少なかろう。だがアイドルと呼ばれる者ですら、「ミュージシャン」や「アーティスト」という言葉に流れていく。ロックという言葉はアイドルからアーティストへ脱皮するための免罪符の意味しか持たなくなる。何もかもがムーブメントではなくブームで終わり、後には極端なセールスを記録した一曲だけが思い出として残り、振り向けば荒涼としたビジネス・シーンが広がるだけである。

 ミュージシャンとして、真摯に自らの音を突き詰める者たちすら、他との差別化を考えるあまり消去法で音を紡ぎ出す。CDプレスの小ロット化は、「トカゲの尻尾切りレーベル」「お試しレーベル」などという言葉を生み、プロデューサー偏重の音楽界は、そんな小レーベルの立ち上げ待ちでデビューもままならぬミュージシャンを生む。正にデビュー難民。晴れてデビューが決まっても、火がつかないミュージシャンは容赦なくレーベルごと潰される。
 繰り返すが、さりとて今の時代、この構造に絶対的な悪を突きつけるわけにはいかない。オーディエンスがなければマーケットは成り立たないからだ。ニーズがあるからプロダクトがあるのだ。仕掛けた側が先なのか、求めた側が先なのか、ニワトリタマゴの論理に近いが、いずれにせよ資本主義構造社会の必要悪としてこの怪物は今日も生きている。

 このライナーは、怪物の黎明期と戦った者の話であると言っても良いだろう。そして彼らもまた、葛藤と格闘する者としては、黎明期を生きた者たちなのだ。 MOJO WEST復活の意味は、ただお客が入る、入らないというだけでミュージシャンをブッキングするライブハウスをやるのではない。地元にポップスが根付き活気のある街に北山通をしたいとの願いが込められているのだ。
 プロやアマチュアやということなんか関係ない楽しくのれればいい。
〈text by Kimura Hideki featuring April 25th「デイブ平尾とシャンク」より抜粋〉

 5日間に渡るオープニング・イベントの初日用のテキストからの抜粋である。初日のメンバーが親友や仲間を辿って結成されたものであり、住職、お好み焼屋の主人、など、レディ・メイドではないバンドのあり方だという経緯にはフィットする。
 ちなみにかつてゴールデン・カップスのヴォーカルを務めたデイブ平尾氏は、ママ・リンゴでステージを踏んで以来、実に30年ぶりの入洛だったと聞く。それがMOJO WESTのこけら落としのステージとなった。

 政治運動でもない、経済活動でもない、宗教集会でもない、芸術運動でもないけれども、それらを全て包括しようとロックを中心にはじまったイベントがMOJOだ。~中略~ブルースシンガーのマディー・ウォーターズがサンフランシスコのヘイドアシュベリーで「アイ・ゴッド・マイ・モジョ・ウォーキング」を絶唱した。集まった客がモジョ、モジョとのりまくったのだ。~後略~〈MOJO WEST Opening Releaseより抜粋〉

 先のテキストは、つまりは別段、デイブ平尾氏だけに向ける言葉ではないのである。30年前と今と、ステージの上に立つ者も、ステージを観る者も、ステージに上げる者も、そしてその構造も、さして変わりはありはしない。メジャーかマイナーかではない。下手な兵法を持ち出さず「格好良ければいい」という指針に殉じて活動を続けるミュージシャン・アーティストは今も多い。

We Got Our MOJO Starting.

そのミュージシャン・アーティスト一人ひとりが、バンドの一組一組が、ムーブメントを起こす権利と、そして可能性を持つ。そしてそれが起こるのはこの場所であっても構わないのだ。かつての西部講堂がそうであったように。かつてのサンフランシスコでオーディエンスが「I GOT MY MOJO WALKING」を観たように、我々は今、北山でMOJO WESTのスタートを見届けたのである。