U☆STONE 2
川本勇的、メディアの相関図とは
お山の大将では成り立たない
「今はちょっと薄れてるかもしれないけど、それは(前号で紹介した「想音楽園~アコースティック パラダイス」という番組ができたのは)関西にもちゃんとしたミュージック・シーンがあったからやと思う。憂歌団がおって、河島英五さんがおって、桑名さん(桑名正博)がばりばりやってて、いっしゃん(石田長生)がおって、もんたさん(もんたよしのり=門田頼命)がおって、といういわゆる関西音楽界も元気やったから、音楽番組もつくりやすかった」。恐ろしいのは、メディア露出が多いものを「元気だ」と勘違いしてしまうことだ。中央の番組ではなくとも、ローカルの番組で、またライヴハウスで活動を精力的に続けている人はいるし、彼らがパワーを持っていないわけではない。「本当はそういうのをメディアが取り上げないとあかんと思うんやけどね」。
当然ながら、川本勇氏自身が経営する同店も「メディアと大きく関わっている」と言う。それが特徴だと。「もちろんライヴハウスとしてのスペースがあって、その下には(テレビ制作としての)メディアの事務所があって、その下にバンドの練習場所があって、1階にはテナントさんで飲食店が2軒入ってる。地方都市でやるには『ライヴハウス』としてだけでは、ちょっと不十分やと思うんやね。例えば大阪と比べたら、音楽やってるヤツの総人口も観に行くヤツの総人口も違うし、いやらしい話、経営できひんな、と。もっと組み合わせていかないと。『びわ湖放送』とか『KBS京都』という地元の放送局もあるわけで、放送局に対する感覚が近いわね、大都市に比べると。親しみがある。そことしっかりつながっていることで、ライヴハウスでやってるバンドを応援したり、地域のCDショップに面出しで置いてもらったり。大阪なら『FM802』だけで済む電波力が、地域でやるとそれだけでは足りないし喜んでもらえないということがあるから」。地方で成功しようと思ったら、弱い者同士が協同しなければいけない。「ウチは、ウチは」という、お山の大将的なエゴイスティックな感覚では、地方で大きな影響力は持てないのだと。そのためにはライヴだけではなく、イベントも必要になるし、タッグを組むことが必要になってくるのだと。
「観る側」と「出る側」をハッキリさせそして、ステージは神聖なものに
個人的に、「あのライヴハウスは最高だ」というベストなものはどんなものだろうか。それを自身の店にシンクロさせることはないのだろうか。そういう質問をぶつけると、それは構造的にあるのだという。
「観客と出演者の導線が全く分かれてるとかね。観客の間をぬって楽屋に行ったりしなあかんとかいうのがライヴハウスは多いから。そういったところは設計上、自分らしいものになったとは思う」。本コーナーで、氏が出演していたという「RAG」を取材させていた際、ようやくサウンドシステムもある程度納得のいく機材が揃えられたという話を伺った。「観客との位置も近いよね、『RAG』は。『ミュージシャン オブ ミュージシャン』には好まれるハコやろうね。『しっかりとしたテクニックを見せつけてやる』というチームには(笑)。『RAG』に限らず基本的に京都のライヴハウスのマスターって、ほんまに好きやもんね。滋賀県には『MUSE HALL』ぐらい高いステージがなくて、ウチが初めてやと思う。(ステージが低い)『RAG』の良さもあるんやけど、僕は『観る側』と『出る側』の差をはっきりつけたいっていうのがあって、それだけにちゃんとしたヤツでないと立てない神聖な場所であるというね。導線も含めて、そういう風に考えてるから。そういうのもあって、今年(取材時点、’06年)になって『クロマニョンズ』とか『ASIAN KUNG-FU GENERATION 』とか、ビッグネームがようやく出てくれるようになったからね」。
「ビッグネームを呼べること」と「地域の次世代を支えること」と
また、その対極として地元の高校生バンドを応援する「BBB(BIWAKO BAND BATTLE)」という月例イベントも主催する。それは「高校が地元にいる最終世代」であるからだ。滋賀県には今、各大学がキャンパスを設けているが、学生はやはり越境組が多い。つまり、大学以上は「地元に居着いていない」ケースが多いのだ。それは社会人も同じである。だから高校生のバンドを集めて、エントリーも無料にしている。「最初は集客50人とかが続いたけど、今は200人以上になった。それは嬉しいな。地域に『地元でも音楽ができるんや』と思える子が増えてるってことやから。僕らの時代は滋賀から出ていかなしょうがなかったから。高校生たちに下(同店地下のスタジオ)で練習してもろて、実力がついたら『上(同店)のステージを踏め』と、そういうファクトリーとしてね。で、地元のテレビに1カットでも出してあげられれば、それがまたモティベーションになる」。
「ビッグネームを呼べること」と「地域の次世代を支えること」がミュージックシーンを支える両極であると。それぞれの要素は、本コーナーで何度も論じてきたが、系統立てて考え、それを論理的に実践している現実を知ると実に解りやすい。練習場所と、ビッグネームが踏んだステージを自分も踏めるというモティベーションがあることで、今までなら3カ月で終わっていたバンドが1年、それ以上続くことが重要で、大きいことだ、と。
「いろんなドサクサの中で上手いこと(笑)」縁がつながり、力が生まれつつある
「大都市になればなるほど、多様化という意味でそれぞれが拡散していくけど、小さな都市ではそれができない。だから手を取り合おうと思う。『びわ湖放送』にしても『KBS京都』にしても電波力は決して強いとは言えないけど、だから『一緒にやろう』という感じになる」。同店は、その支え合いを実践したかったハコなのだという。その構想は10年以上前から氏の心の中にあった。それは、それよりもっと前、それこそテレビのランキング番組など、商業ミュージックというものを見てきたことで「音楽も地域に根付いているべき」と考えたからである。「『青少年健全育成委員会』みたいな感じもあるやん?(笑)」。ずっと考えてきたことではあるが、そういうことをやりたい年齢になったのかもしれないとも。それができる環境になったこともある。そういった遠大で滅私に似た活動を、資本主義構造化の社会で実現しよう思うと、ビジネス的な成功がなければ無理である。だが氏には、経験に裏打ちされた制作プロダクション事業という確たるビジネスがあり、さらに地域メディアを支え、地域ごとプロデュースしたり、またそれを乞われる立場でもある。音楽業界や他メディアとのコネクションもある。「そういった環境が、一気にぐわっとまとまったのは、縁のもんなんやと思う」。それは駅前のアクセス至便な物件が出てきたことも含む。自社ビルの一角として同店はあるのだが、この物件自体に巡り会えたことも縁である、と。「ウチができて駅前ももの凄くキレイになったしね。いろんなドサクサの中で上手いこと(笑)」。
「自分の心のある場所」とは何か
「故郷」が、選択肢のひとつである
「常に上を見て生きていくと、長い人生の中の、これは勉強やと思うんやけど、僕がある時に思ったのは『あ、これ以上はもぅ関西ではできひん』と。『(上に)行くなら東京』と。これはね、『こっち(関西)でもできる』とかよく言われるけど、正味、いろんな事を知ってしまったら無理。お金の規模も違うし。僕もできると思ってたクチやけど、ある程度思い通りの仕事ができて、ある程度高い山の頂から見渡した時に、もっと高い山ってあるやん? それはね、東京(笑)」。だから、それまで関西で苦楽を共にしたダウンタウンが東京に進出するときは、正直迷ったという。「ずっと一緒にやってきたからね。でも東京に行くか、地元でえぇかげんにやらんとちゃんとやるか、と思った時に後者を取った」。現在、東京で活躍している構成作家たちも旧知の仲であるが、それを幸せと思うかどうかは別物である、と。もちろん彼らの全てが適当な仕事をしているという訳ではなく、「僕はここにいることを選んだだけで、どっちを幸せと思うかはそれは人生観の違い。まぁ派手に金持ちになろうとか、もっと大きく音楽業界を動かそうとか、芸能界を動かそうと思ったら、東京でしか無理やわ。お金の流れ方も違うし、そこは仕方がない」。そして、自分が充実した仕事をしながら、地域のトップになることを選んだ氏である。
「自分の心のある場所を持ちたいと思うねんね。昔はそれほど思っていなかったかもしれないけど、それが故郷ってもので。で、少しでもそういう気持ちを持ってるウチに人間さらにそうなっていく。最初から『故郷大好き』と思ってる人はそうはいないやろうけど、仕事が忙しかったり、忙殺されてる中で、拠り所が欲しいと思ったときに、故郷ってのはその選択肢のひとつやと思う」。
それを証明するかのように、同店がオープンしたとき、ステージに立ったのは本誌でもお馴染みαステーションのパーソナリティでもある後藤晃宏氏が率いる「JANGO」や、「サニサイ」ら、ご当地の面々であった。
ミュージックシーンの底辺を支える
パイロットタイプでありたい
「『びわ湖放送』では番組のプロデューサーでもあるし、自分がパーソナリティとして出演もするし、台本も書くし、営業もするし(笑)、15~16人でやることをひとりでしなアカンからね(笑)。でもそれが好きなんやろね。だから『この街が好きやねん』というスタンスで続けてきたCF!もすごいと思う」。予期せずお褒めまでいただいてしまった。
「嫌らしい話になるけど、芸能界とか放送業界っていうのは、やろうと思ったら圧倒的に東京の方がバジェットも良いし、大規模なことができる。でもライヴハウスっていうのは、そんなに格差はない。ビジネス的には。放送業界のような20倍のバジェットの違い、なんてことはない。キャパシティにもよるし、入りやすいとかいうことはあるやろうけど、ライヴハウスってのは六本木に建っていようが、木屋町に建っていようが、石山に建っていようが大差はない。地方でもできるし、ビジネスとしては間違ってないと思う」。
同店はだから、様々なメディアがリンクしているライヴハウスとしての雛形でありたいという。単体ではなく、多くの人の手を介し、肩を組むことで存在する。日本にはそういった環境の方が圧倒的に多いからだ。日本のほとんどは地方都市でできているのだから。同店は日本に向けて、ミュージックシーンの底辺を支える存在のパイロットタイプとしてありたいのである。かつて「想音楽園~アコースティック パラダイス」という番組を立ち上げた際、後に同系の別番組を手がけたプロデューサーが見に来たように、今は地方都市から同店を視察に来る同業者がいる。それは店の構造を見るのではなく、地域とつながるソフトウェアを見に来ているのである。
「結局はソフトやと思う。誰も見たことのない画が描けるかどうか。老舗は音だけに特化したっていいけど、特に僕らは新参者なんやから。色んなことをやっていかなあかん。だから『ライヴハウス』じゃなくて『ライヴスペース』という言い方にしてる」。
誰も見たことのない画が描けるか
描き続けた先に、きっと光がある
メディアとは、我々人間も持っている。声を発することも伝達手段のひとつだし、身振り手振りだってそうである。そのどちらもを使う「唄う」という行動も、またひとつのメディアであろう。バンドや出演者たち、商店街のおばさんたちと打ちあわせる作業も、地元の高校生たちと接することも、全て同じだ。それがご近所で交わされる「こんにちは」という挨拶だって同じなのだ。
そう思う同店が、地域の起爆剤になることは十分可能だ、と。国会議員や首相になった、土地の名士たちが残した公共事業ではなくても、そういう人たちの力でも、街は変わっていく。それは、より高い山(それは時に張りぼての山である)を登ることを選ばず、地元でしっかりした仕事をすることを選んだ氏のポリシーとも合致する。
「文化だって変わってきてる。『文化ホール』っていうのがあちこちにできたのが30年前ぐらい? 今は垣根がなくなって『芸術は文化ホールで観る』という文化がそれこそない。その頃には道ばたで唄ってるヤツなんてのもいなかったわけだし」。
何年後か、何十年後かは解らない。それが同店をテストケースにした、他都市からかもしれないし、それでも構わない。同店がきっかけで、日本のミュージック・シーンに何らかの大きな変化、そんなものが生まれてくるかもしれない。その頃同店は、「拾得」や「磔磔」や「RAG」のように、老舗と呼ばれる存在になっているだろう。でもきっと、「誰も思いつかない画」を描こうとしていると思うのだ。