都雅都雅 1
オープン1年後に、早くも第一期の
「閉めようか?」論が持ち上がる。
前回・前々回の「KYOTO CLUB METRO」と「KYOTO MUSE」ができてから2年後、同店は誕生した。寺町通四条下ル、電機屋街の入口に「タニヤマヤイフ館(現「カメラのナニワ」)」というビルができたのと同時に、しかもそのビルの地下に現れた。その為に同店が「タニヤマムセン」の系列なり経営だろうと思っておられる方も多いかもしれないが、経営は全く無関係。設計段階では倉庫になる予定だったものを、「何か他の利用法が無いだろうか?」という意向によりライヴハウスになったという経緯がある。
初代のブッキングマネージャー氏が呼んだミュージシャンは、「結構ラグとかぶるんですよね」という。とは言え、ライヴハウスとしてのヴィジョンはしっかりあったのだろうと思うと、「いや、無かったかも」とブッキングマネージャーの松井秀教氏 (写真) は笑う。当時はまだバブルの余韻が残っており、楽天的だったのかもしれないとも。それでも一応(失礼)コンセプトらしきものはあった。「大人が飲んで食べてライヴを聴ける」という、解り易く言えば「ブルーノートの邦楽版」だ。「ブルーノート」といえば、ジャズやブラックミュージックをまず連想するが、その邦楽版というのは「フォーク」を軸とする日本人アーティストの音楽を指す。
当時流行った言葉で言えば、まさに「大人の隠れ家」。オープン当初は桟敷席があり、さながら能舞台のような雰囲気でもあった。ステージの高さも今より倍ほど、逆に奥行きが現在の半分ぐらい。その姿もオープンから1年までで、その後、桟敷席を廃しステージを雛壇状にし、6年ほど前に現在のおよそ50cmほどの高さのステージに落ち着いた。「タッパ(天井までの高さ)がないから、(照明に近いため)暑いのね(笑)。ドラマーがスティックを振り上げると照明にあたってしまう〈松井氏〉」。観る側よりも出演する側の不都合があったらしい。「(元・爆風スランプの)ファンキー末吉さんなんかとくに、シンバルの位置が高いから、『当たってるやん』と(笑)〈松井氏〉」。
松井氏は、オープン時に出向という形で「最初からスタッフとしてはいたけれど、1年間はホールスタッフをしてました」という。1年後に何があったのか? オープニングからブッキングマネージャーを務めた人物が突然辞めてしまったらしい。これまた味な話が出てくるものだ。「そこで早くも『第一期閉めようか?』論が出て(笑)〈松井氏〉」。第一期ということは、その後も何度か危機があったのだろうか。「そりゃもう、毎年(笑)」。
’90年代の半ばから、それは意外にも、
「フォーク」という音楽がキーになる。
ともあれ、とりあえずは何も考えず、「ブッキングマネージャーをやる?」と聞かれて「やります」と答えた松井氏は、経験のない任に就く。「今考えたら無茶なブッキングもしましたね。『そのルートでブッキングしたらアカンやろう!』という無茶を」。そこでやはりコンセプトに据えたのは「フォーク」であった。ご本人は洋楽のロックを好んで聴いてきた。「フォークなんて全く聴いたことないのになぁ。(出演者の)アテがないやない…」と思っていたのに、何故フォークだったのか? 当時はフォーク世代の人々が、業界で要職に就き出す頃であり、流行るのではないだろうか? という目算があったのだという。「フォークをもう一回復活させよう」。そんな風潮があった。’93~’94年の頃である。「全ての流行がボリュームゾーンに届くまでには数年を要する」というセオリーを是とするならば、なるほどその数年後にメディアに登場してきたミュージシャンには「ブルームオブユース(’95年、「最後の願い」でデビュー)」や「ゆず(’98年、「夏色」でデビュー)」らがいる。いわゆる「ストリートミュージシャン」と呼ばれる、アコースティックギターで路上で歌う若者が増えた頃である。それ以前にも、「ブルーハーツ」が歌った歌詞はフォークのプロテスト性を持ってはいなかったか。「シオン」というシンガーの歌は’80年代以降のフォークだったような気もする。音楽活動というと少し違う話になるかもしれないが、吉田拓郎がキンキキッズとともにメインホストとなり、バックに恐ろしく豪華なミュージシャンを従えたCXの「LOVE LOVE愛してる」という音楽番組をご記憶だろうか。その放映期間が’96年10月から’01年3月だった。この番組で、キンキキッズのふたりが憶えたのがフォークギターだ。「(吉田拓郎が)レコーディングなんかもアクティブにされてた頃だったんじゃないかな」とは、後述するが松井氏からブッキングマネージャーの任を引き継ぐ広瀬氏の回想である。
目立たないが、実力者が揃っていた、
「フォーク世代」と呼ばれる人々。
イベンターの世界にしても、「例えば『サウンドクリエイター』なんていう会社は、鈴置雄三さんを筆頭に、もともと京都で学生の頃にイベントをやっていた人たちだし〈松井氏〉」。つまり大手のイベンターになった人たちもフォーク世代だと。自らの会社でビジネスを考えるとフォークのイベントはできないけれども、要職になれば余裕もできて、フォーク復活に個人が力を注ぐことはできる。「じゃぁここ(同店)から発信しようよと。それが『第二期』都雅都雅ですね〈松井氏〉」。その頃は、壁にフォークの大御所が使った衣装やギターやレコードをケースに入れて、店内壁面にディスプレイしていた。「泉谷しげる」「井上陽水」に始まり、「吉田拓郎」「かぐや姫」「松山千春」…と続くフォークシンガーたちの系譜である。「今もその辺の幕をめくれば額が出てきますよ(笑)〈広瀬氏〉」。前述のディスプレイも、結局5年ぐらいは続けていた。入手経路は前述の「サウンドクリエイター」鈴置社長からである。その他にも東京のプロダクションや、「YOUNG GUITAR」という音楽誌の編集長らとのコネクションも手伝ってくれた。ちなみに現在も同店には、若き日の「井上陽水」「泉谷しげる」「N.S.P」、さだまさしが結成していたユニット「グレープ」に「かぐや姫」「荒井由実」らが表紙を飾るヴィンテージレベルの同誌が、いずれも触れるのが怖いぐらいの良い状態で多数現存する。祇園祭の宵宵山の円山野音でお馴染みの、高石ともや率いる「ナターシャセブン」というバンドのメンバーであった坂庭省悟(故人)や、高田渡や中川イサトらとコンタクトをとることで、「シンドかったけど、それなりに」ブッキングを軌道に乗せていくことになった。
とは言え、彼らの音楽は当時のボリュームゾーンが聴くものではなく、利用客の年齢層はほとんどが30代後半から40代だった。思えば「KYOTO MUSE」と2年しかオープン年が変わらないにもかかわらず、ライヴハウスとして正直、20代にあまり認知度がなかったと思え、一種独特な雰囲気を同店は持っていた。
「小屋とは?」という禅問答と葛藤、
「磔磔」という偉大な前例と、薫陶。
井上陽水と言っても、読者の多くがご存じなのは「いっそセレナーデ」や「リバーサイド物語」以降であろう。「『傘がない』じゃないんやろうね(笑)。’80年代で言うと『フォークシンガーがエレキギターを持っちゃったよ』とういサプライズはありましたけどね。岡林信康までがエレキを持って、ニューミュージックという訳の解らない呼び方が出てきたりとかね。レッドツェッペリンのCDを探すと『フォークロック』というコーナーに置いてある。何故かというと『フォークギターを使ってますから』と〈広瀬氏〉」。やはり音楽のジャンルの多様化と複雑化、判別の仕方が難しくなってきたのはフォークとて同じだったのだ。「『THE ALFEE』がテレビで『オレ達はロックだ!』と叫んでて、『ちょっと待ちぃな、君らフォークやったやん』ってね(笑)〈広瀬氏〉」。
思えば、松井氏が右も左も解らぬままブッキングマネージャー業を始めた頃、最も世話になったのが「磔磔」の水島氏だった。「しょっちゅう事務所に相談に言っては怒られて帰ってきた(笑)」という。「ライヴハウスに色を付けたらあかん」と言われた。「フォークでやろう、なんて全く正反対だよね。『あぁ…、どうしよう……』と(笑)。だからすごいしんどかったね。ストレスも、あったねぇ。それにしても、あそこ(磔磔)には何かいるよ。音が云々とか、雰囲気が云々とかではなくて、何だろう。でも何かいる。そこに出演したミュージシャンが全て蓄積されているようなね。今行っても緊張する。『あぁ、何か怖い』みたいなね。壁にあそこまで色んなものが染みついているライヴハウスはなかなかない。どうしてやろうね。(技術ではない)上手いバンドが出続けてるからかもしれないね。何のポリシーの無いバンドが出ても、壁に染み込んでいくものはないのかもしれない〈松井氏〉」。影響と言うよりは、薫陶を受けたという方が正しい。ブッキングマネージャーとはこうあるべきだという、ノウハウではなく在り方のようなもの。「『その日からプロだぞ』ということを言われて、『えぇっ?』と。でもそうですよね(笑)〈松井氏〉」。
ヴィジュアル全盛期にフォークを捨てず、
アマチュアバンドへシフトした第三期。
何とかかんとかフォークを軸に続けた数年だったが、後に京都のアマチュアバンド中心にシフトしていく。とは言っても、ちょうどその当時主流を成したいわゆるヴィジュアル系のバンドたちとは違う。年齢にもよるのだろうが、10年余り前に30歳ぐらいだったバンドには、オリジナルのデモテープを持参するフォーク色の強いバンドもあった。彼らを慕う若手が集ってきたというから、図式自体は変わらないのだが、ただ、同コーナーでは今まで出会ってこなかったジャンル=世界でもある。文化とは、ある場所にはちゃんとある。
その第二期から第三期への過渡期、「フォークというテーマを捨てたわけではなくて、アマチュアバンドの方が増えてきただけでね。その方がやりやすいことはやりやすかったし。ただその頃出てくれてたバンドってのは線が細くて、『(お客さんが)一人の前でもやりますっ』と。いや、一人の前でやるんやったらその一人の子の家に行ってやったげたらえぇやん、と(笑)。小屋をそういう使い方して欲しくないなぁってのはありましたね。『やるからには少しでも多くの人に観て欲しいでしょ? じゃぁ呼びなよ』っていう。あとみんなマジメになったから、嘘つきがいなくなった。『今日は少ないけど、次は多いッスよ!』と言ってくれりゃこっちはやるわけ。やりました。少なかった。そしたら『ショボン』となってどんどん小さい小屋へ行ってしまう。全員じゃないけど、欲がないねぇ〈松井氏〉」。
ステージで歌うことがマスターベーションなら、もっと気持ちいいことしなさいよ。そう思いながらの第三期であったという。そしてそれは、今も続いている。