京大西部講堂
それは日曜日の夜から、月曜日の未明にかけてだった。2000年大晦日から2001年元旦、旧世紀が終わり、新世紀が始まるその瞬間、琵琶湖畔でカメラを構えていた。因果な商売である。特別な瞬間に、家族との団欒もままならぬ。
大津市が「びわ湖大津カウントダウンショー実行委員会」なる特別組織を結成し、世紀の初めに特別に、真冬の琵琶湖に花火を打ち上げたその日、京都市も「21世紀京都幕開け記念事業・京都21」と銘打った体制で、史上初めて真冬に五山の送り火を灯した。官民入り乱れてカウントダウンの嵐。猫も杓子も10から0までの数を叫んだ。それからちょうど1年…。
まる1年前の狂乱が、新たな大晦日カウントダウンのスタンダードになったかのように、2001年~2002年をまたぐイベントも例年より賑やかであった。この年、カメラを構えていた先はF.P.M田中知之氏に松本洋司氏(JAQ MUSIC@COLLAGE)ら。現代京都のクラブシーンの御大DJ陣を中心とする面々だった。1カ月強という長きに渡り、「大風流」と名付けられたイベントが場所や形、内容を変え京都市内各所で行われ、そのとどめのイベントの開場、それが京大西部講堂だった。
恥ずかしながら、京大西部講堂に入ったのも、見たのも、その時が初めてだった。世代観的には、その場所でオイソレとライブが出来るとも思っていなかったし、実際パブリックイメージは「過去の遺物」的なものではなかったろうか。記憶する限りでは、その日ほどの大がかりなイベントはなかった。その日そこで見た人の数と景色は、一流アーティストを招聘した日の、一流ホールのそれと似たものだった。
「京大西部講堂」と言う名前は、独自の風格を持つ。官ではなく、民でもない。それは過去にその場所で行われた伝説を、直接体感してはいないが、伝え聞いているからかもしれない。数々の伝説を知ってか知らずか、この施設を利用したいというニーズ、オファーは絶えないという。不思議はない。そのキャパシティ、無料に近いレンタルフィー…、イベントスペースとしては京都では類を見ない魅力に富む。
だがしかし、ただキャパシティを望む者、ただ安いハコを望む者には難攻不落のハードルが待つ。時間的な制約を挙げれば利用できる時間は21時までだが、ハードデータではない、この施設を使いたいという理由が必要になる。その生殺与奪の権利を預かるのは大学管轄の公認サークル(のような存在)「西部講堂連絡協議会」。彼らが主催する月二回の定例会議に出頭・説明をし、厳しい稟議にかけられた上で利用の可否が定められる。曰く「決まりはない」。だが絵には描けない「精神的に繋がるものを共有すること」という線引きが成されるのだ。古くは加藤登紀子、そして夭折のミュージシャン、どんとを擁するボ・ガンボス、いや、ローザルクセンブルクの名を挙げる方が適切か。絵には描けない線引きと言っておいて、簡単に説明はできるわけでもないし、飽くまでケース・バイ・ケースではあるのだが、彼らがこの場所で発した温度を知る者にのみ、それは許される、というのもその「目には見えないルール」のひとつだ。もちろん大学が管理する施設として、京大軽音楽部のイベントや演劇は行われている。
伝聞で恐縮だが、文頭のイベントから遡ること半年と少し、2000年5月には、京大吉田寮食堂で24時間ライブが行われている。当時、もしくは現在でも京都を代表する騒音寺、ちぇるしぃ、キング・ブラザーズ、デビュー間もない頃のつじあやの等が出演していた。吉田寮食堂において、5月27日21時からから延々翌28日の夜まで、1時間刻みで24バンドが入れかわりたちかわり登場するライブ。エントリーフィーを払えば、その後の出入りは自由、パス代わりのタイラップの数が足りなくなったのを良いことにかいくぐってライブを観ようとする者、ダッチワイフを持って出てきて叫ぶバンド…、インディーズ、いや、アンダーグラウンドという言葉が似合いそうな若者たちの高い体温がそこにはあった。未明に出番が廻ってきた騒音寺がステージに立った頃、ヴォルテージはピークを迎えたという。そこに集う顔ぶれは、食いつぶしの音楽ではなく、筋が通ったバンドに魅力を感じる者が多かったという。彼らにとっては京大西部講堂には名のあるプロが出る、というイメージがあった。逆に、吉田寮には、同じプロでもローカル色を求めたのだ。30年前の京大西部講堂の匂いは、どちらかと言えば現在のこの吉田寮に漂っているのかも知れない。
そもそも、1937年に建築された西部講堂は26年後の1963年に現在の場所に移築されたと同時に、大学の運営の手から利用しようとする学生の自主管理運営に既に委ねられている。ここを利用する学生達は前述の運営団体「西部講堂連絡協議会」を組織し、今に至っているのだ。そして、1971年までの8年間の間には、現在よりも活発に劇団や舞踏を中心とした多くのイベントが行われた。例えば、映画監督大島渚氏が在籍していた劇団「創造座」の公演、演劇雑誌「現代劇場」を発刊し射手座公演を続けていた小松辰男氏の公演などなど、前衛、アングラ、ゲリラが今まさに燃え上がらんとしていた。写真はこのコーナータイトルの元となったムーブメント「第1回 MOJO WEST」開催自主運営に開放された1971年3月20日(土曜日)の京大西部講堂前のものだ。(写真/木村英輝氏提供)この定期ロック・コンサートのスタートを男性トップマガジン「平凡パンチ」は見開きカラー写真とともに全8頁を割いてレポートしている。見出しはこう。「京大西部講堂でロックが爆発した!!」。今この頁をあらためてみても、その当時の熱気が直に伝わる。血湧き肉踊るとはこのことか。写真を凝視すれば、西部講堂の瓦屋根のペインティングが判読できよう。「ROCK COMMUNE 70→∞」。その下に「FUCK 祭 1968.11」 。屋根の上部「屋根を踏んづけた大きな赤い足跡 」がご覧頂けるだろうか。
京大教養学部をはじめとし、同志社、立命館、龍谷などバリケード封鎖された校内はロックやフォークが鳴り渡り、学長、学部長を軟禁状態にした大衆団交の学生集会が、学生達の最後の砦としてここで開かれていたのである。封鎖された校門の外の機動隊とのにらみ合いの日々、デモ中の機動隊の楯に向けての投石、火炎瓶は京の都大路のパトカーを炎上せしめ、幕末の動乱もかくやと思われる混乱だった。
その運動もしくはムーブメントの中、学生運動の祝祭空間と化した学内において、反対破壊行動では行き場のない袋小路から抜け出せないことに気づき出した学生達はカウンターカルチャーへの模索を始めだした。
それは重くのしかかる、魑魅魍魎が跋扈するかのごとき権力社会構造への憤りと粉砕を謳うとき。1969年1月19日東大安田講堂攻防戦で8500名の機動隊員はバリケード封鎖を解除、374人の学生を制圧逮捕、時計台の赤旗を降ろした。安保闘争に明け暮れた団塊全共闘世代にとっての一時代の終焉を告げる象徴的なシーンとして、その様子はTVのブラウン管から全国に中継された。1970年3月31日本赤軍派日航機「よど号」ハイジャック、1971年9月16日三里塚第二次強制代執行、そして1972年2月19日、多くの学生達に虚脱感を置き土産に、日本連合赤軍浅間山荘銃撃戦は、政治や権力との武力闘争の無力さと儚さを決定的なものとした。
当時と今の世相については、無論、文字通り隔世の感がある。それまで当然であったことが突然ひっくり返る。価値観が一夜にして覆る。価値観を測る物差しが少ない時代、事を起こそう、反体制を貫こうとした若者は、鋭角的に一点を目指してラッシュした。今にして思えば画一化された猪突猛進だったのかもしれないが、良し悪しはともかく、ひっくり返そう、覆そう、と動いた若者がいた事実は残る。その体温たるや、どれほど高いものだったろうか。
その物差しが何十も何百も選べるようになった今、馬力のある世代が目指す先は様々になった。多品種少量生産や薄利多売の風潮は全て、その社会事象を根底に持つ。価値観の多様化は、そしてイベントのマスターベーション化を誘発していく。現代のイベントがマスターベーションなら、’70年当時のムーヴメントは強姦と表することも出来よう。語弊はとうに承知。意識を外に外に、攻撃的に向けたのが彼の時代、そして彼の京大西部講堂だった。
「京大西部講堂」。当たり前と思っていたものを覆す力。昨日普通だったことを、今日は異常にできる温度。極小数のマイノリティの集団と、命短い大量消費のマジョリティとに二極化されたミュージックシーンにおいて、そして似たような世代観を持つ現代においても、いつの時代も、この場所には、狼煙を上げる場所であって欲しいと思うのだ。