RAG 1

時代は少し若くなる頃
’80年代に入ってくる

 当コーナーでは、概ねその時代背景の起点を約30年前に据えて進めてきたが、ここで少し、年代を進めたところで始めることになる。「ラグ」という名の店ができたのは今から23年前、’81年である。既に取り上げた「拾得」や「磔磔」よりは10歳ほど若い計算になる。この時代に入ると、読者諸兄としてもシッカリした記憶がある時期に入ると思えるのだが、今ひとつ、この’80年代というのは釈然としない時代ではある。それは一極集中の’70年代から、多くの選択肢を持つ環境への移行の時代だったからではないだろうか。狂った好景気をその半ばに迎えた時代でもあり、「憶えているようでいて、夢のようにつかみどころがない時代」でもあった。

夕暮れの、埃にまみれた
グラウンドにその起点はあった 

 ともあれ、同店の歴史や、その時代背景を語るには、他と同様、もう少し時間を遡らねばならない。同店の創始者であり、当時の店主・須田晃夫氏は、意外にも20歳頃までは音楽との縁がさほどない。小学校の5年生ぐらいからギターは弾いていたと言うものの、それが決定的な音楽への入口ではなく、京都に生まれ高校までを過ごし、大学は東京、そして根っからのラガーマン。高校も大学もスポーツ推薦という筋金入りである。ラグビー漬けの毎日は、多感な時期を激動の’70年代にリアルタイムで過ごすも、その頃のムーヴメントに関しては「又聞き程度」だった。そして大学の2回生。将来を嘱望されたプレイヤーは、だがケガに泣いた。それまで入っていた寮を出て、改めて下宿での一人暮らしを始めた。引っ越した丁度3日後に、最寄りの千歳烏山駅前にオープンしたジャズ喫茶を見つけた。オープン直後で常連すらいるはずのないそのジャズ喫茶にふらりと訪れると、マスターが言う。「(ラグビーの練習をしているはずの)こんな時間に何をしてるの?」。聞けばそのマスター、その店をオープンするまではプロのカメラマンで、しかもスポーツ選手を撮ることが多く、須田氏を追いかけて撮影したこともあるのだと言う。コマーシャルフォトしかできなくなった自らに見切りをつけ、一念発起した具体策が、そのジャズ喫茶であった。カウンターの外と内に、挫折を味わった男がふたり対峙した。その挫折感がシンクロしたふたりは、須田氏がアルバイトという形で共に働き出す。

ブルースでも、ロックでもない
ジャズこそがその起点にあった

 ここで予め、今まで当コーナーで触れてきた音のジャンルとは違う文化が登場することを宣言しておかなければならない。フラワー・ムーブメントやロック・フェスといった言葉で語られてきたこれまでは、ビートルズやローリング・ストーンズ、ジミ・ヘンドリクス、ジャニス・ジョプリン…、ロックやブルースのフィールドで活躍したアーティストの名前を引き合いに出してきた。だがここで言う’70年代も終わり頃の時代というのは、20歳そこそこのジャズミュージシャンが多くいた時代、となる。「4ビートだけがジャズじゃない」。ロックからボサノヴァやサンバ…、クラシックのように歴史がある訳ではない音楽・ジャズは、その進化も速かった。自分のプレイを目の前の客に認めさせようとするエネルギッシュな時代。「クロスオーバー」と呼ばれた時代。そしてすぐ後に、「フュージョン」と呼ばれるジャンルが台頭する時代。挫折組のふたりは、ジャズレコードのライナーを読んでは、ジャズについて語っていた。のめり込んだのはロックではなく、ブルースではなく、ジャズだった。それが須田氏の、そしてラグの原体験である。
 FMステーションにFMファン、オリコンと共にラジオ系の情報誌が相次いで創刊され、アメリカからは「ソウル・トレイン」という化け物番組がやってきた。そんな時代を反映して、歌謡曲ならキャンディーズにピンクレディー、山口百恵にジュリー、ツイストにゴダイゴ、そしてサザンオールスターズが台頭し、トップチャートを飾り、アース・ウィンド・アンド・ファイヤーにエドウィン・スター、クール&ザ・ギャング…、ディスコではソウルが花盛り、時代のマジョリティはこんな風だった。そんな中で、「自分が聴いていたジャズというのは、10人中2~3人が知っている程度のものだったと思う」と須田氏は振り返る。完全なマイノリティ。
 数年の誤差はあるが、’70年代、井上陽水の「氷の世界」が100万枚を売った頃、草刈正雄と共に資生堂のCMに出演していた渡辺貞夫の「カリフォルニア・シャワー」が40万枚のセールスを記録したというから、上り調子の時代だったと言えるかもしれないのだが、カシオペアやスクェア、浪花エキスプレスの登場をしばらく待たねばならない頃、自らの店で、ジャズ系ライヴハウスのメッカ「新宿ピットイン」で、同年代の優れたミュージシャンを多く見てきたが、ライヴの動員人数は決して多くない。

挫折をしたこと、そして、
バックアップを誓ったこと’80年代に入ってくる

 ラグビーで感じた挫折感。その後に生まれた感情は「バックアップ欲」だった。「スポーツでも音楽でも、プレイヤーとしてではなく、バックアップする仕事なら故障とは関係ない。肉体的にできなくなることはない」。それが独立開店の動機であり、今に続く同店の行動理念でもある。とは言え、当時まだ20歳少しの須田氏である。闇雲にバックアップと言っても、それは様々。「応援するって言っても、難しいよ」「プロダクションに入ったらマネージャー業に忙殺される」「レコード会社に行ったら営業だよ」などなど、第一線で働くまわりの人々の声は信憑性には富んだが、ネガティブな声が多かった。それが親切心からだと解ってはいても、雑音として聞こえてきたのは、これはまた、若さゆえ。「本物を観よう、と」。飛んだ先はアメリカ。半年ほど「やっちゃいけないバイトをしながら(笑)」L.A.からN.Y.までまわってみた。観るもの聴くもの全てが新鮮。だからこそ吸収も速かった。ジャズを生んだ彼の地で決めた。「水商売は嫌いだが、自分の店をやる」。
 六本木に新宿…、東京のライヴハウス事情にはもちろん精通していた。ジャンルの細かな違いで縄張りがある。さらに「日本のライヴハウス」と捉えてみれば、そこで勤めているスタッフもまたミュージシャンであることが多く、「変に音楽やってるから(笑)」常にストレスを抱えている。そんなスタッフのストレスがライヴを見に来る客に行く。これはいただけない。逆を探せば、音楽そっちのけで接客がしつこい水商売然とした店になる。その中間がない。「N.Y.ではメシも美味いし酒も美味い、その上サーヴィスもジェントルで、客のマナーも文化としてあるのにね」。
 ならば食事でも酒でも会話でもない、とりあえずは、とことん聴いてもらう店をやろう。とは言え準備段階に抜かりはなし。ピザハウスからパスタ屋…と、1年ほどは点々と飲食店でバイトを重ね、23年前の’81年、見つけた物件は北山、当然店名には「Jazz Spot」とサブタイトルを入れた。サザンオールスターズが本格的にヒットを飛ばし始めた頃、平日はBGMにジャズを流し、週末にはライヴをやる。コーヒーも飲めればランチもあるし酒も出す。決して入りづらい店にはしない。薄暗い店にもしない。正にカフェバーのハシリのような店、「ラグ」がスタートした。

関西のミュージシャンは、
東京に比べて,譜面に弱い(笑) 

 客席はわずか40席。設備上の問題で、アコースティックが多かった。同志社大学や立命館、京大、京都産業大学…、あらゆる大学のサークルの連中が集まり、カンパ制のライヴが多かった。当時の常連には浪花エキスプレスの東原力哉らがいたという。いわゆるコンポが普及しだし、カセットテープに簡単に録音できるようになったこの頃、レンタルレコード店が増え、レコードが売れなくなっていった。この辺りの時代背景は、今までの連載の時代観とは明らかに差がある。「ストーンズのスティッキー・フィンガーズが2万枚売れてベストセラーと言われた」時代とは訳が違う。洋楽はもっともっと身近になり、「’80年代は層が厚かった。憧れのアーティストがいっぱいいた。ひとつの楽器を持てば、目標にできるようなね」。須田氏の述懐である。あくまでルーツはジャズ、という前提だが、インスト(インストゥルメンタル)がその後しばらく多く聴かれるようになったとも言う。サンタナなどはその最たる例だろう。ジャズというジャンルから外れて(ジャンルを「拡張する」と言う方が正しいかもしれないが)いく風潮と、「プロになりたい」という金のタマゴがたくさんあった。彼らはとりもなおさず、須田氏が「応援すべき」ミュージシャンたちであった。
 当時の関西のミュージシャンたちはというと、「関東に対して壁を作ってたね。東京へ出ていくヤツがいると『魂を売りやがって』みたいなね(笑)。東京からミュージシャンを呼ぶとよく解ったんやけど、関西は好き放題やってるだけやから譜面に弱い(笑)。会いもせんと人見知りするからグチを言うんやね。ホンマは自分も東京から呼ばれたいくせに(笑)」。こうなるとスタンスは「応援」というよりは「教育」に近くなる。例えば、プロダクションの殻に縛られて、新しいことをトライできなくなる事。これは決して「応援」ではない。出てきた杭を打つのではなく、変な評価で潰さずに逆に煽ってやること。これが「プロデュース」と呼ばれるものの、本質ではないだろうか。
to be continued