KYOTO MOJO 1

同じバンドのコピーバンド対決
「?」と意外の連続が襲ってくる

 奇しくも、当コーナーと同じ名前である。その由来を聞くのも楽しみだった。撮影当日、同店に向かう。広さはさて、どうだろう。スタンディングですし詰めになれば、200人ほどのキャパだろうか。まず気付くのが「スタッフの数が多いな」ということだ。生憎ブッキングマネージャーの中西大治郎氏がご不在ということもあり、目に付いたスタッフの方に来訪の意を告げた。すると実に朗らかで、ハキハキとした対応が気持ち良いのである。いわゆるアンダーグラウンドな、暗い雰囲気がない。
 ほぼ毎日ライヴが行われていると言い、その日のイベントを聞いてみた。「『ASIAN KUNG-FU GENERATION』のコピーバンドを集めたイベントです。で、お客さんにどっちがより似てるか決めてもらうんです」。我が耳を疑った。同じバンドのコピーバンドを集める? 普通タイバンを避けるようなライヴを、ワザと行っているということか。珍しいですよね…? 「そうですね(笑)。特に『GO!GO! 7188』の時はものすごい盛況でしたね」。ただ朗らかに答えが返ってきた。これは「ワザと」という言い方は失礼と解った。「企画」なのである。思い切った良い企画だ。
 後日、代表者の大仁田清志氏と、前述の中西氏に揃ってお時間を頂戴した。お二方にお会いして、何となくスタッフの笑顔の理由が解った気がした。大仁田氏は画に描いたような仏顔。中西氏の笑顔も屈託がない。
 バンドを選ぶ基準は「希望があれば、それはどなたでも」。件のコピーバンド対決にしても、そのひとつなのだろう。ニーズがあれば受けてあげたくて、さらに同店なりの企画を乗せている。「ウチに入って3年目の若い子がいてね。『今までのライヴハウスの枠に囚われないことを』という気持ちがあって。可能性のあることなら、色々やっていこうと。その中にああいう企画があるんですね。バンドを始めて間がない人でも、将来大きくなる可能性はありますから。その人のためには、オリジナルじゃなきゃダメとかじゃなくて、最初はコピーバンドのイベントでも、オリジナルが一曲・二曲できれば、将来的にはオリジナル曲バンドのイベントに来てもらえたらいいかなぁと」。
 とは言え、リスクもあるだろう。外様は余計な心配を重ねるが、実現している上に、盛況というのだから、やはりリベラルな良い企画だと言えるだろう。

スタッフの多さと、これもまた、
首を傾げるほどの朗らかさはいかに?

 次はスタッフの数について聞いてみる。「多い、かもしれませんねぇ」。例えて言うなら、志を同じくする劇団員に近い明るさ、朗らかさがあるという感想をぶつけてみた。「それはありがとうございます(笑)。とにかく若いエネルギーを大事にしたいんです。あまり『アレしろ』『コレしろ』というのは無いんですよ。『ホールの仕事』『PAの仕事』というのはありますが、それぞれの中で『お客さんにドリンクを待たせない』ためにどうするかとか、新しい事をするにしろ『起こりうる可能性を考えなさい』と。そう言っているだけで」。今、人材育成で最も難しいのがこの「自発的に」という指導だ。これが難しいのは、上に立つ者が尻拭いをしないか、安心感を与えないからである。だから失敗だけを恐れる。だから指示を待つ。ビジネスである以上、経営者に試されるのがその怖さだ。新しい企画が自発的にできた。ではそのリスクを飲み込んで「やりなさい」と言えるかどうか。「いやぁ、その怖さはありますよ、多々(笑)。でも本人が一所懸命考えた企画なんで。その一日だけを考えればね、当たり外れはありますけどね。やっぱりそれを頭ごなしに放ってしまうと意欲がなくなってしまうので、赤字になったとしてもできるだけ、ね。結局言い出したら聞かない場合もありますし(笑)。とにかく、何につけてもエネルギーを大事にしたいんですよ」。そういう素性を持つ店には、そういうスタッフが集まってくるということだ。彼らには、職場を選ぶ権利がある。「自主性というのは特性としてあるでしょうね。やり出すと泊まってでもやってますから」。

いよいよオープンも’90年代後半へ
ただし、店の若さと歴史の若さは別

 ブッキングマネージャーは数名いるが、中西氏がリーダー格となる。スタッフを束ねる役割も負う。「時には『大仁田さんは良いって言ったかもしれんけどさぁ…』という場合もありますが(笑)。とにかくやると決めたらウジウジ考えずに突っ走るだけです。もともとライヴハウスとしても周りに老舗さんがあるし、昔よりバンドさんは出るところをたくさん選べる環境になってるわけですから。オープン当初なんて、今の1/3ぐらいしかライヴが入ってなかったですからね。色んな企画とか、新しい試みとかをご提案することで、ツアーバンドにしても電話を下さるようになったんでしょうし。当初は赤字がどうとかよりも、毎日が赤字だったんで(笑)、あんまり数字のことよりもどうすればバンドさんの為に…、ということを考えてましたね」。
 オープンは’99年の9月。ライヴハウス、もしくはバンドというものが下降傾向に入った頃だとうのは、同コーナーで何度も述べてきた。生き残りをかけていた店もあったろう。オープン当時、大仁田氏は46歳。自身バンドマンでもある。「中学の頃からバンドみたいなことをやってまして、最初はギターも弾いてたんです」。もちろんそれだけで「立派な不良」という世代。「でも僕以上に上手いヤツがでてきて、それとね、当時は『身体が大きいヤツはドラム』っていう感じだったんですよ(笑)」。ベースもさほど重用されず、フロントマン優先の典型的な創生期のバンド文化だった。世代的には学生運動が盛んな世代に、多感な時期を過ごした方である。「西部講堂」「拾得」「磔磔」…、当コーナーの初期にご紹介した場所が、今も伝説として語られる時代。「まぁ神戸にいたせいもあるんでしょうが、(その時代の)まっただ中を通ってはきましたけど、さほどでもないですね。それよりも食うのに必死でしたよ。キャバレーで演奏する仕事をクビにならんようにね」。ブルースやファンクを好み、ドラマーとして活動していた。
 だが、それだけでは食えないので他の仕事も並行しており、失礼を承知で言えば、いわゆる「掛け持ちミュージシャン」のハシリである。オープン頃も同様で、その掛け持った仕事も不況のあおりで潰れてしまい、知人との縁があり、その知人をオーナーに据えて開店したという経緯である。立場を考えても、年齢を考えても「えぇ、バクチです(笑)」。開業にあたっては、自らも額に汗して働いたが、出演する側としてはベテランでも、出演させる店を造ることにおいては素人だ。それでも、気持ちも身体も疲れたと思ったことはなかったという。今でも「新参者の誇り」を忘れないという。それを貫く姿勢もまた、良い企画に結びついているのかもしれない。

初めて目にする「神戸」の往時は
逆に京都を透かして見せてくれる

 「だいたい、今のスタイルのライヴハウスが出だしたのが僕らの若い頃だった。オーディションをしてもらって、曜日によって出演バンドが決まっているという。その頃のライヴハウスというのはアクの強いのが多かったですからね」。と、おっしゃるのだが大仁田氏の生まれは神戸。京都で言えば「ダウン・ビート」や「田園」が比較対象になるのだが、「30歳ぐらいまでの京都のシーンというのはあんまり知らないんです。大阪には行ってましたが、神戸にはあまりライヴハウスらしい店は少なかった。ジャズのバーとかは多くありましたけど。出るのはキャバレーとか、そういう場所でしたね。歌謡曲もやるし、スタンダードもやるし、いわゆるショータイムですね。当時はフルバンドがいっぱいいましたからね」。フルバンドとは、ご存じの読者がおられるかどうか解らないが、「八時だヨ!全員集合」のステージにいた「ダン池田とニューブリード」など、いわゆるビッグバンドである。神戸にはそういったバンドを擁するキャバレーが多かったという。その頃、大阪では憂歌団、京都では村八分の台頭とほぼ同時のブルース全盛時代だが、チキンジョージもまだなかった頃の神戸では、話しに聞く京都の熱さはなかったという。当時の京都をご存じなく、また他の都市との比較は少なくとも当コーナーでは新鮮である。逆に京都が浮き彫りになる。「すごかったですよ。京都は。それこそ西部講堂の『MOJO』というイベントですとか」。その「MOJO」が当コーナー名のひとつの由来でもあり、二年以上前、当コーナーを始めるに当たり、後見人となっていただいた木村英輝氏によるイベントである。当の木村氏が、「MOJO WEST」をオープンする前、同店を訪れたという。「来られまして、お会いしましたよ。『 MOJO WESTっていう名前をつけるけど、良いかなぁ?』って。『どうぞどうぞ』と(笑)。木村さんは存じ上げなかったですけど、イベントは知ってましたからね」。店としてはまだ若いと言えるが、トップはその世代の方である。自ずと話は興味深いものとなりそうである。
to be continued…