a gateway to success 1

 4月末から5月頭にかけて、北山の「MOJO WEST」というライヴハウスがオープニング・ライブを行ったことを、前号・前々号でご紹介した。この「MOJO WEST」は、その枕詞に「Entertainment Hall(エンターテインメント・ホール)」という言葉を戴く。が、敢えて今回は「ライヴハウス」と呼称する。
 ライヴハウス…。例えば「新宿ロフト」というライヴハウス。過去何組ものアーティストが、このライヴハウスを満員にすることで、メジャー・ステージへ上がっていった。大手メーカーやテレビ番組のオーディションや、歩行者天国や、駅前のライヴパフォーマンスがその役を負った時代もある。いつの時代も「登竜門」と呼ばれる場所や催しがある。

 今号のP.60~61で紹介しているとおり、「OUTSIDE SIGNAL」というバンドがインディーズレーベルからのリリースに先駆けて行った場所が、このライヴハウスである。新宿ロフトの観客動員数の記録と、酸欠のオーディエンスを残して、かつてのボウイのように、ブルーハーツのように、彼らはここからステップを駆け上がっていくのだろうか。そしてそこに、駆け上がる階段は存在するのだろうか。
 
 本コーナーのphaseを遡って「京大西部講堂」。彼の建物はMOJO MOVEMENT当時、いったいどんな存在だったのだろうか? 彼の時代の登竜門はどこだったのか、あるいは、何だったのか。
 京都のライヴハウス。先頃立ち上がった「MOJO WEST」の他に、「ミューズホール」「ウーピーズ」「ラグ」、近年では「メトロ」もライヴハウスとしての役回りを演じている。惜しまれながらその歴史を閉じた「サーカスサーカス」「DONZOKO HOUSE」というライヴハウスもあった。そして「磔磔」「拾得」。
 有山じゅんじや木村充揮らが、現在でも時折顔を見せる「磔磔」。そのキャパの大きさには、ある意味そぐわないビッグネームが多数訪れている。関西発のアーティストの回帰志向も、またそのハコを目指して京都に入ってくるアーティストもいる。「THEE MICHELLE GUN ELEPHANT」の大きな文字が壁を飾ったのはその一つではなかったか。そこを登竜門と呼ぶかどうかは別として、都市伝説に近いネームバリューを持ったということでは、異論を挟む者はないだろう。代表の水島氏は「特にジャンルは問うてはいないんやけど。ヘヴィメタルだってやるし、結婚式の二次会だってやりますよ(笑)」とサバサバとおっしゃっていたのを思い出す。そのナチュラリズムが長く名物ライヴハウスの看板を背負い続ける秘訣であるのか。

 MOJOの後見人である木村英輝氏に聞く。 「『磔磔』は確か’70年代の中頃のはず。確かに最初からライヴハウスとしてあったと思うけど、それよりも『拾得』。こっちの方が古い。初めは喫茶店やったのが、なんや『ズルズルっ』っと(笑)、ライヴハウスになった。ライヴハウスという業態自体が前例が無いようなもんやから、営業許可の件もあったんやろうけどね」。
 他にも伝説として残る、音楽に縁の深い店の名を、我々は今も耳にすることが出来る。「田園」「ジャズべらみ」…。30年余り前、MOJO MOVEMENTの時代のライヴハウス事情が解ったような気になるのだが、氏はこうも言う。「ただ、当時は今で言うライヴハウスという存在自体がなかったと考えた方が良い。『田園』はライヴハウスというよりはダンスホール。ダンス用のバンドがいただけ。オールディーズやルンバ、サンバを演奏するね。ジュリー(沢田研二)が出入りしてたという話も言われるけど、彼は友人の兄貴がそのハウスバンドのバンドマスターをしていたというんで、関わりがあっただけ。ボーヤに近い存在やった」。

 巷間言われるタイガースがここで結成された云々…という話は、あくまで噂のようだ。後のタイガースのメンバーらが結成していた「プレイボーイ」というバンドに沢田研二が加入、「ファニーズ」というバンドになって大阪に進出する。そのバンドを渡辺プロが引き抜いて結成されたのが「タイガース」である。恐らく、後の「ポピュラーソングコンテスト」いわゆる「ポプコン」の前身か、そのものだと思われるのだが、YAMAHA主催のオーディションが存在しており、そのオーディションイベントのPOP部門での優勝も彼らを後押ししたようだ。いずれにせよ、渡辺プロがプロデュースし、ザ・タイガースとなってからは、ものの半年ほどで日本を代表するバンドになっている。

 この頃の話で、興味深い発言を木村氏はしている。このコンテスト自体は’69年から’86年まで行われているのだが、「当時のどちらかというとYAMAHAはピアノとか、オルガンを売りたかったんちゃうかな。学校の教材としてね。用途は童謡やクラシック。ピアノのキャンペーンとしてキーボードなんかは登場してきてはいたけど、ロックとか、ポップとかにはまださほど意識は行ってなかったんと違うやろうか。後にエレキギターも手がけるようになってからはわからないが…」と言うのである。曰く、「ビジネスにならないことは企業はやらんよ」。あくまで当時の氏の所見としての言葉だが、ミュージックビジネスが持つ一つの側面ではあろう。

 余談が長くなったが、一方、「四条河原町上ルにあった『ジャズべらみ』では、渡辺プロの仕掛けが入ったロカビリーとニール・セダカやポール・アンカらのアメリカンポップスが主流で、テレビのヒットパレードと連動して尾藤イサオや佐々木功らが歌っていた事もある」という。どちらかというと芸能界ノリ。彼ら「アイドル」目当ての女子高生たちが通った店ではあったが、アーティストの登竜門、という雰囲気ではない。この店はついこの間、バブル期頃までは存在していた。
 
 様々な「ハコ」が現れ、それぞれの役割を果たして生まれ、そして消えていく中で、「a gateway to success」。つまり「登竜門」という存在は、京都のどこにあったのか。またそれはハコではなかったのか…。
to be continued