fuji odyssey 2
プロデューサー。「何某プロデュースの~」「誰それをプロデュースする~」というフレーズが使われすぎて、解りにくいご時世である。直訳すれば「生産者」であるが、今この名で呼ばれる人物は、GNPに寄与しない、つまり純粋な生産活動をしない人が多い。さらにこの肩書は、使われる世界によってその意味が微妙に異なる。音楽業界では「総合演出家」という訳がしっくりくるだろう。映画やテレビの業界ではもはや「出資者と現場のクリエイターを繋ぐ人」、平たく言えば「スポンサーを集める人」という性格になる。その場合、映画監督よりもプロデューサーの方が「偉い人」なのだ。
資本主義構造下では、何をするにも資本が必要だ。当たり前だが大切な事である。映画なら映画に、テレビ番組ならテレビ番組に、何千万・何億という出費が必要となれば、その金策を考えねばならない。その資金を提供してくれる人物なり、組織を探すことが必須である。テレビ番組を例に取るのが最も解りやすいだろう。テレビ局は、一切生産活動をしていない。財貨を生み出さないという見地から第一次産業たり得ない。何もないところから金は生まれない。では如何にして存続する組織なのか? 時間割りされた電波媒体を売るのである。番組に挟まれるテレビコマーシャル。それが商品である。各家庭の端末=テレビにその出資者に利益をもたらす情報コマーシャルを放映する「時間」を売るのだ。当然ながら殆どの場合、それは自社商品の魅力をアピールする情報であり、商品の「イメージアップ」を図るものだ。コマーシャルが視聴者に届くことで、出資者はその代金に見合った集客を手にする。となれば、視聴する人の数が大事になってくる。「数字数字…」と言われるのがそれだ。「視聴率」。これが高ければ、それだけ多くの人がその番組、ひいてはその番組の出資者のコマーシャルを目にしているという事になる。視聴者が多ければ、比例して集客も見込める。1クール(3カ月)を待たずに番組が終わる「打ちきり」という現象がたまに起こる。これは出資者が、その番組に投下する資本に見合ったメリット、つまり費用対効果を認めなくなり、資金提供を打ちきる。制作者側は、制作する資金が調達できないから何もできなくなる。ラジオになっても図式は同じだ。極論すれば、現代資本主義社会はコマーシャリズム社会、と言い換えても良いかもしれない。
前置きが長くなったが、前号の最後に出てきたイベント名「富士オデッセイ」。このイベントとて、何もないところからは生まれ得なかった。まずは組織が要る。その組織が、これも前号で触れた、反戦弁護士・マイケル・グリーンを尖兵とした、ギャンドルフという組織である。その組織とて、勝手の解らない国、日本での活動に際しては、現地活動組織として、「ジャパン・ビューティー・コングレス」という組織にあたりをつけている。「ミス・ワールド」という、当時の世界的なミス・コンテストの、日本での主催団体である。理事長は石田克己氏。その実兄が石田博英氏といい、政界にパイプを持つ人物であったという。実に周到な根回しだ。
現在のテレビ局の構造とは、もちろんその形は異なるが、何もないところからは金は生まれないという不文律は変わらない。反戦弁護人として富を得たとは言え、マイケル・グリーンは大富豪ではない。「富士オデッセイ」というイベントに要する費用も、前述の構造と同じく、「この(木村氏に話が来た)時点で既に、第一次か、第二次の出資を募っていた筈だ」と木村英輝氏は言う。「最初は『こんなイベントを考えてるんですよ』というレベルで出資者を集めて、話が具体的になって、マスタープランができあがるに応じて、出資者を加えていってたんやろね」。プラン自体、数段階に分けていたのだろうということである。
「富士オデッセイ」という名の下で行うイベントである。その会場として、まずは現在はF1進出を果たしたトヨタのものとなった富士スピードウェイが検討された。さらに富士急ハイランド(当時は日通が株主)も会場としてノミネイトされた。
会場を物色している時点で、「既に参加予定のアーティストとは仮契約ぐらいは結んでいただろう〈木村氏〉」。このあたりでは、並行して動いていた各々の役割を分けて述べねばならないが、ここはまず、大きな流れから始めよう。
当然、日本国内でのPRについても、ギャンドルフは日本の大手代理店に打診している。代理店側としても、改めてギャンドルフに対してプレゼンテーションを行うのだが、何度も言うように、当時日本ではロックというものが全く認知されていない。前号でも少し述べたように、音楽評論家とも接触??・折衝を試みるが、その温度差は激しいものだったという。当時の音楽評論家とは、いわばレコード会社のお抱えのような存在であり、レコード会社が扱う商品は「邦楽が9割、ロックどころか洋楽が全体の1割ぐらいやったんちゃうやろか〈木村氏〉」という状態。その洋楽部が扱うものの中には、ジャズがあり、ブルースがあり、そのマイノリティとしてロックがあったにすぎない。まずその温度差に加えて、あくまでイベントのマーケットを国内に見出そうとする代理店と、「L.A.から、N.Y.から、サンフランシスコから、ロンドンからアムステルダムから若者が大挙してやって来る。世界から100万人が集まる」という読みを持った主催者とでは、端から話の合おうはずもない。結果、代理店のプレゼンテーションは却下され、「それよりも…」と、これも前号で触れたように、「規模こそ小さいが、ロックフェスティバルと同じ考えでイベントを行っている人物に任せよう、木村という男にやらせてみよう」となった。まず一つのファクター。これが木村氏が富士オデッセイに深く関わるキッカケとなった訳である。
「富士オデッセイ」の日本側のプロデューサーとなった男、木村英輝。もちろん、彼がその役を担った時点でマイケル・グリーンらは日本を訪れている。訪れているというよりも、滞在しているわけである。先述の会場探しにしても、短期の滞在で完了するものではない。「僕が付き合うてただけでも1年ぐらいはいてたからね〈木村氏〉」。そのぐらいの大がかりな日程で企画されていたわけだ。これも前号で触れたが、ジェネラルプロデューサーとして木村氏に実際オファーされた提示金額が、1カ月に100万円。今の価値で言えば2000万近い額である。滞在費などを考えると、かなり大規模な出資をその時点で集めていたことは想像に難くない。
「任されたと言っても、こっちはビジネスのことなんか何もわからへんわけやからね(笑)」と前置きしながらも、木村氏は開催に向けての準備に奔走することになる。「出資が集まっていると言うても、それは必要経費として使わなければならないお金やからね。僕が受け取ったギャランティも必要経費や何やら、全て込みの金額やったから〈木村氏〉」。
時代はまだ1ドル360円という固定レートの時代。「ニクソンのオイルショック以前の話やからね。大きな話で言えば、大蔵省の認可や、物を輸入するわけではなくて、人間を日本に送り込んで商売をするという話やから、通産省もうるさいわけ。小さな話で言えば会場のトイレの設置とかね<木村氏>」。大小取り混ぜて、非常に手間がかかる、煩雑な仕事が多かったという。
残念ながら、ここから先の経緯は、「実現できなかった」という結果を目指して紹介しなければならない。そこで、数々の下準備が並行して行われていることを確認した上で、この「富士オデッセイ」を、主催者側がどのように位置づけていたかを、これもくどいほどの繰り返しになるが、再度確認しておこう。
開催を目指す年は大阪万博の年、1970年。「大阪万博が大人の集いとするならば、富士オデッセイは富士の裾野に若者が集まるイベントやと、そういう位置づけやったわけやね〈木村氏〉」。その企画意図を踏まえた上で、何段階かに分けた出資を募り、さらに主催者が日本に滞在し、代理店の撤退や、様々な経緯を経て準備が進められたわけだ。
そして、その準備に支障をきたす、いくつかの出来事があった。「富士オデッセイ」は一転、その身を荒波に向かわされることになっていく。
to be continued