VOX HALL (BIG BANG) 2

継がれた想いの行方、
時代はいよいよ’90年代へ。
 さて、現在のVOX HALLを説明するためには、まず「JEUGIA」を説明しなければならない。創業は明治31年というから、西暦1898年、今から106年も前である。当時の屋号は「十字屋田中商店」。昭和27年に株式会社となり「十字屋楽器店」と商号を変更、昭和50年には「株式会社十字屋」に、平成2年には「株式会社JEUGIA」となる。京都にお住まいの読者ならばご存じの方も多いと思われるが、楽器からCD、DVDなどの物販をはじめ、音楽産業を幅広く手掛ける企業である。同社にこのライヴハウスの経営権が移ったのが’92年4月。今では改めて同社の一部として機能しているが、当時は別会社扱いであった「株式会社クリエイティブ・コンセプツ」という組織の計画だった。「音楽繋がり」でライヴハウスを同社が得たという流れは、理解できない話ではないが、時代は微妙な頃である。’90年を境に、今に繋がる大手レーベル一極集中のヒットチャートか、もしくは数限りないインディーズレーベルが台頭しているからだ。後者の景気は「イカ天」ブームであるというのが一般論である。
意図的にベクトルを変え、
確たるコンセプトに立つ。
 現在、同社のスタッフとして、VOX HALLのマネージャーを務める田中和美さんは言う。「BIG BANGの頃とは確かに方向を変えていました」。田中さんの記憶の限りでは、BIG BANGはチキンジョージと懇意であり、アーティストの行き来が多かったという。前号の出演リストを読み返せば納得できるし、既述の後藤氏の言質とも符合する。
 何故の方向転換か。同社はヤマハの教室を独自に経営しており、並行して音楽の専門学校の運営も、実は行っている。そこで生徒たちに発表の場を与えるために、ホールが必要だったというのだ。もちろんそれだけではなく、いわゆるアマチュアのバンドやアーティストを、よそのライヴハウスや大学の軽音をまわり探したという。田中さん自身、ヤマハの特約店、つまりJEUGIAで鍵盤楽器を学んだ、いわばJEUGIAの生え抜きである。「JEUGIAの、他のセクションはマニュアルがしっかりしているんですが、ここ(VOX HALL)は野放しなんで(笑)、のびのびやってます。指示と言えば『赤字を出さなければいい』ぐらいのもので」。
ビッグネームを呼ぶ気はない。
そうきっぱり言えるスタンス。
 同社がこのライヴハウスを手に入れた経緯からして、確かにビジネスに比重が高いことを田中さんは否定しないが、それでも無名のバンドやアーティストを育てていくという人材育成のシステムは、どこのライヴハウスも変わりはない。彼女は良い姉貴としてあるようだ。「ビッグネームを呼ぶ気はありません」とキッパリ言う。「VOX発のバンドを輩出したいんですね。活動の場を広げてもらいたいわけで」。同社の音楽教室の発表の場であるとともに、これからを担うバンドやアーティストに一肌脱ごうとする姿勢は変わらない。「出してやってるんだ」とは決して思わない。「一緒に大きくなっていこう」と思うだけ。
 ステージを底辺に、急な勾配で客席が連なるという、既述のホール内の構造。「『演りにくい』ってよく言われるんですけどね。でもそれを言われたときは『アホか!』と。『ここは小さいけどアリーナから3階席まであるねんでっ! ここで出来ひんかったら、城ホールでなんて絶対出来ひんぞっ!』と(笑)。その実、着席だったら30人~40人でいっぱい入ってるように見えちゃいますからね。『吹き抜け要らんなぁ、この部分でもう一つ店できるなぁ』とか言ってるんですけど(笑)」。
それが世代か、とも思う。
だがまだ信じるものはある。
 例え後押し役の姉貴分とて、若手に思うことはある。「『夢みたいなこと言い過ぎよ、アンタ』と思うこともあるし、ヴィジュアル系のコピーになると、とたんにナヨッとしてくるんですよね。『なんじゃコリャ?』と。ひどい時はタイバンが5バンドで、その内の半分がグレイのコピー(笑)。グレイ→グレイ→ラルク→グレイみたいな(笑)」。それでもその頃はまだ熱さを感じることができたというが、今ではバンドのブッキングに際して、ジャンルで組むことをしない。「面白そうな子がいると、その子たちだけで1日ブッキングすることもあります」。
 高校生から大学生、もしくは20歳代前半は、夢の塊の世代と言える。ただ今は、純粋に音楽が好きでやってる子が何人いるのか?と自問することがある。「何か格好よさそうで、ただ楽器を持ってみただけ、みたいなね…。最近の子は根性ないしね…」と思うこともある。今、日本を蹂躙するバンドの多くはコピーバンドのプロ化である。憧れたバンドのコピーから始めるのは悪くない。だがコピーに毛が生えた程度の楽曲をオリジナルとしてはいけない。憧れたアーティストがいったい何を聴いて、どんな音源をルーツとするのか、それを探す事をしない。自分に影響を与えたアーティストを必要以上に追わないのである。それが世代というものか、とも思う。だがやはり嬉しく思うときというのは、こういうときなのだ。「『僕ら、ヴィジュアル系辞めます』と聞くと『ヨッシャっ! よぉ気付いた』と(笑)。『チューニングって何か知ってるか?』というような子だったのが、全国にツアーにまわるって聞いたときとかね」。憂うばかりでもない。彼女が感じている「これから」のバンドやアーティストたちは、大きく二分されている。
期待を込めて容赦なく、
ガミガミ厳しく言い続ける。
 実は一度、「VOX HALLって、潰れたんですか?」という噂が流れた時期がある。6~7年前のことである。それまでのマネージャーが突如辞め、「基盤を築いてくれた先達がいなくなって、やっぱりこの世界、繋がりがあってナンボやと思いました」と言う。今では田中さんが立派にマネージャー役となり、多くのコメントに裏付けられるとおり、もはや姉御役として、当初の目的である人材育成道を邁進中である。ブッキングにジャンルの別はなく、地道にやっている若者は心から応援する。「そういう子には容赦なく舞台に立つ者の心構えをガミガミ言いますね」。ガミガミ厳しくしすぎたら、根性がないという最近のバンドは寄りつかなくなったりはしないのだろうか? 京都の花街の一部では、舞妓のなり手が減ってしまって、昔は厳しい教育係であった女将が、逆に舞妓に気を使うケースも出てきていると聞く。その心配の有無を問うと、「らしいですねぇ。そうなんですよねぇ、でもバンドをチヤホヤするのがイヤなんですよっ! !(笑)」。笑ってはいるものの、かなりの形相である。姉貴役の面目躍如だ。逆に「適当にやってる子には『ハイ、お疲れ~』で済ましますけど(笑)」である。手を抜いているわけではない。この子こそはと思って手塩にかけて、応援してきたバンドが「解散します…」と報告してきたときの寂しさ、やるせなさは、経験した者でなければ解るまい。
ここより巣立て、若者よ。
その為にこそ、このハコはある。
 スターダムというピラミッドへの道標に、間違いなくこのライヴハウスは存在する。だが今まで紹介してきたライヴハウスのように、ある程度プロフェッショナルとして、そこから巣立っていったビッグネームがいるのとは、少々趣は異なる。確たる音楽観念を持つ者も、そうでない者も、混在しながら、ある意味若き監督がいる部活の部室のような存在。「多分、よそに比べるとアットホームなハコですよ」。田中さんはポツリと言った。
 ライヴの日でもないのに、バンドのメンバーがフラッと現れて話をすることがある。そこで他愛のない話が元で、イベントができることもある。「LOVE & PEACE」というアルバムがある。オーディションから勝ちあがったバンドやアーティストたちによるコンピレーションである。これは「PICK-UP PROJECT」というプログラムにおいて、まずはVOX HALL常連のバンドやアーティスト、ユニットをオーディションにかけ、代表を選ぶ。同じようにあらゆるフィールドから代表として選ばれたバンドやアーティストが勝ちあがり、各フィールドから最終的に選ばれた者が、その盤面にクレジットすることを許される。既述のとおり、現在はインディーズレーベルが飽和状態で、「当社(JEUGIA)の販売セクションとしても飽和状態なので、かなり絞っていく方向ですね」と田中さんも言うのだが、こういう場合、同社の強みは多い。何しろ音楽に関わるあらゆるセクションが含まれるのだ。告知からイベントそのもののオーガナイズまで、「そりゃ各セクションまわって手伝ってもらいます(笑)」という行動が可能なのだ。
 ちなみに「LOVE & PEACE」の次は「TWIST & SHOUT」「HAPPY & SMILE」など、プロジェクトが回数を重ねるべく、アルバムタイトルは決定済みである。
「ライヴハウス様」になんて、
決してなりたいとは思わない。
 「LOVE & PEACE」にもVOX HALL出身のバンドの名前がある。実に健康的なオーディション・システムである。このライヴハウスでは、今も真っ当に新たなバンドが育てられている。「『ライブハウス様』にはなりたくないし、やっぱりビッグネームを呼ぶ気はないです」。
 物心がついた頃から、ご両親から何となく習うように言われて始めた鍵盤の勉強。ゆくゆくは、「何となく、普通にエレクトーンの先生になるんだろうなぁ、と。迷いもなく思ってましたね(笑)」。その予定も果たしつつ、結局もっともっと裾野の広い先生役としてこのライヴハウスを切り盛りしている。
 「『みんな、でっかくなってここでシークレットライヴやってくれ』と(笑)」。何よりも、それが今の彼女の、そしてこのライヴハウスの願いであるらしい。思えばそれは、BIG BANGを指揮した後藤氏が最も求めたものではあるまいか。
 遺志は継がれ、そしてまた、京都のミュージックシーンの固い地盤がここに成り、そのシーンに住む若者が立つ、丈夫な地面となっていくのだろう。