UrBANGUILD
バブルとは何の関わりもなかったが、
’80sのアンダーグラウンドに育った。
音楽との関わりには、色々な形がある。「趣味として大切にする」人間もいれば、「食い詰めてでも仕事にする」という人間もいる。音楽と誰かを繋ぐ線の形や太さや長さはさまざまで、それはライヴハウスを営む者についても同じだ。
’80年代から今に続く店を集めた本誌の4月号を一読して、福西次郎氏は言った。「この頃ねぇ。世間の情報を何にも知らなかったから、DCブランドなんか全く無縁やった。画を描いてるただのパンクなニィチャン(笑)」。
「宝島」が音楽雑誌で、日本にインディーズレーベルという言葉を浸透させた「ナゴムレコード」が紹介されていた頃。「あぶらだこ」「くじら」といったハード文学系パンクバンドもいた。「『あぶらだこ』、やっとるねぇ。今日(の同店でのライヴ)も’80年代の方々やで。『ウルトラビデ』のヒデさんとか」。ナゴムがメジャーな存在になる以前に「ウルトラビデ」「町田町蔵」を擁した「ドッキリレコード」があって、京都にはインディーズ文化があったし、似合っていたとも。
この「UrBANGUILD」という店の壁や、何枚ものコンパネを別々な画や柄にペイントし、バラバラに切って貼った床を見ると、何というか、その頃のアンダーグラウンドシーンが甦るような気もする。どことなく欧風で、哲学をぶつ知的な不良が似合うような、そんな風情である。「壁はライヴペインティングのたびに変わっていってるけどね。まだオレが描いた部分も残ってるけど。いつから画を描いてるかって? そんな話でえぇの?(笑)」。
「セックスピストルズ」と描いたズボンを履いて、
先生に怒られた、ちょっと個性的な小学生がいた。
桂の出身である福西氏、もぅジロー氏の方が通りが良いだろう、氏は銅駝美術工芸高等学校に通っていた。「つじあやの」の母校としてご存知の方も多いだろう。小学校ですでに画家になろうと思っていた。高校時代、京都パンクシーンの黎明期を支えた連中が周りにごろごろいて、自身も「義丸組」というバンドに所属していた。映画「JUNK FOOD」で一躍時の人となった義幸のバンドである。ミドルティーンからライヴハウスに出入りするような人だったらしく(現在は服役中)、後輩のジロー氏に「『オマエも銅駝来いよ 』っていうから入学したら、傷害で捕まっとぉって(笑)」だそうである。「『 COLT(綾小路烏丸あたりにあったバー)』にいる頃が、ヤツの人生で一番真っ当やったんちゃうかなぁ。ピストルズのスティーヴ・ジョーンズにもらったレスポールとかスラッシュからもらったアンプを持ってるようなヤツで。まぁ日本では珍しいわね、あぁいう破壊型の人間は(笑)」。しかも、彼が生きた街は京都である。「まぁ義幸の話はどうでもえぇねんけど(笑)。オレが中学生で、アイツが高1とかの頃からの付き合いやし、大げさに言うたら、オレらの世代では伝説みたいなもんなんやろなぁ」。何しろ世間では「おニャン子クラブ」が一世を風靡した、何だかフワフワした時代である。そんな時代にゴリゴリした高校生活を送っていた。「ロックマガジン」「フールズメイト」というマイナー音楽誌がパンクを取り上げることはあっても、「ラフィンノーズ」がある程度メジャーになるのは、まだ先の話である。そもそも、小学校5年生の頃の記憶が、「セックスピストルズが出てきたこと」だというのだ。「ズボンにも、セックスの意味も知らずに『セックスピストルズ』って描いていって、先生に怒られた(笑)」。
ヒッピーから’80sニューウェイヴに続く、
面白い時代に、面白い高校に育った
いったいどういう環境に育てばそうなれるのか?
「兄貴がバンドをやってて、ちっちゃい時から普通に歌謡曲よりもレッドツェッペリンとか聴いてたから。パンクが出てきたときに、初めて自主的に『聴こう!』と思った。銅駝には面白いヤツが多いっていうのも解ってたしね」。特に両親が画に関わる仕事をしていたわけではないが、お母様は着物の図案を描くなど、心得があったそうだ。同店でPA・サウンドシステムを担当、西部講堂やメトロ、磔磔などのPAも行う「スリムチャンスオーディオ」というエンジニア集団も、従兄弟さんだそうである。
「まだヒッピーを引きずってるヤツとか、というても高校生ねんけどね(笑)、そんなヤツもいた」高校時代の様子はきっと、西部講堂や拾得、磔磔から続く「純血」の風景だったのだろう。「公立の美術高校ってその頃は東京と京都にしかなかったから、全国からいろんなヤツが来てたし、高校としては特殊やったとは思う」。
その頃から一人暮らしを始め、’70年代から続くアンダーグラウンドなものと、’80年代に入ってからの、ジロー氏曰く「ゴチョゴチョしたもん」の雰囲気が周りに満ちていた。当時のメジャーなシーン、言い換えれば「お洒落」とされたのはサーファーブーム&ウェストコーストサウンドだったはずである。「そう、かもしれんねぇ。でも京都ではパンクというか、ニューウェイヴシーンの住人とか、ニューウェイヴよりももっと形に囚われへん人がいっぱいおった」。アバンギャルドな演奏スタイルに傾倒もした。「『オマエ、ギター弾けへんやろ!?』っていうような(笑)、そういうアルバムに衝撃を受けて、基礎が全くない無責任さで育ってるから(笑)。日本やったら、なんぼパンクや言うても『おはよーございまーす』から始まるやん? それよりもっと投げっぱなした表現っていうか、そういうところから音楽を始めたから。だからちょっとやりたいな、と思っても、すぐ技術的に頭打ちになってできひん(笑)。その点、画は練習しなくても描けたからね」。自身もライヴハウスに出る側の立場だったが、やっぱり画が主体だった。
「習うものじゃない」画を描きながら、
「拾得」をつくった元宮大工との縁を得た。
高校で学んだのは画なんて人に教えてもらうものじゃない、ということ。大学へ行く気も全くなく、卒業後は銀閣寺近くのガレージの真ん中に建つ木造で黄緑色をした「小さな西部講堂みたいな家」に住み、画を描きながら勝手にバーを始めた。「ビールとウィスキーとネスカフェとか出してた(笑)。今みたいにホンワカした感じじゃない、その頃の左京区の連中が集まってきた」。その頃始めたのが大工である。その後、20代の多くの時間をジロー氏は大工をしながら画を描いて過ごす。
長谷川進という大工がいる。元は宮大工で、彼とヒッピーたちだけで造ったのが「拾得」である。ある日突然ジロー氏の家に長谷川進が現れて、「キミがジロー君か?いろいろ噂は聞いてるんや。向かいで現場をやってるから、ちょっと手伝ってくれへんか?」と言う。「ヒマやしえぇよ」。どうやら昔から、食えないアーティストをバイトで雇っていたらしい。だが「なんで(ジロー氏の家に)来はったのかは、未だに謎」だという。
ジロー氏はそこで伝統的な仕事や、職人の在り方の面白さを知った。長谷川進という人は面白い仕事でなければ受けないような人で、半年というスパンが平気で空いた。さほど金が必要だったわけでなく、「じゃぁその半年で画ぇ描くわ」というスタンスもジロー氏には心地よかった。「別に生活水準が低くても、画さえ描ければよかった。ところが、これがまた19歳で結婚したんやね」。20歳の誕生日を迎えてすぐ、一人目のお子さんが誕生する。以来、大工仕事をコンスタントにこなすようになった。「そやね、メシ食うていかなアカンという状況に追い込まれたのは、良かったなと思う。そうじゃなきゃ真っ当に働くことはなかったと思うから(笑)。勤勉に画は描いてたと思うけどね」。
ジロー氏が22歳のとき、長谷川進が突然「世界一周する」と言いだした。「ほな他の仕事しなアカンなぁ、と思ってたら『オマエも行け』と言う。無責任な話なんやけど『ほな行こか』となって(笑)、嫁と子供を連れて何の展望もなく1年間ヨーロッパに行って、スペインに住んでストリートで画を描いたりしてた。嫁の理解? 嫁はもぅ、偉い人なんで(笑)」。その時のスペインの雰囲気が、後の「アンデパンダン」につながっていくのだが、それは後述する。
スペインという国は、もの凄く肌が合った。やっていける気もしたし、そのまま住もうと考えていたのだが、二人目のお子さんができた。「ヨーロッパって赤十字とか修道院とかの流れで、保険を持ってないヤツの保険とか助産システムがあって、お金もあんまりかからずに、向こうで生む段取りもできたんやけど、難産になるだろうって言われてね。自分の国で生むことを薦めます、と。で、帰ってきたら帰ってきたで、またいろいろと動き出して。何となく『画で食えるかな』という状態になった」。
とある画商と出会い、いよいよ「画を描いて生きる」という初志を貫く人生の始まりと思えた。その画商が取り持った某大手レコード会社との契約は、音楽に関わるアーティスト以外のものもあって、「こんなヤツを描けとか、鬱陶しいねん(笑)」。これはもぅ、画に限ったことではない。同コーナーでは何度も何度も触れてきたことだが、パトロンに乞われた芸術家が、好きに芸術活動をできたルネサンス時代ではないのだ。その時代とて、芸術性が合わずに離別や悲劇を生んだ例はいくらでもあろう。
ともあれ、コンスタントに仕事を運んでくれる組織ではあったが、ジロー氏の人生を潤すものではなかった。
「まぁ契約書もまともに読んでなかったから(笑)。ゴメンね、話が長くて。店の話になかなか辿り着かへんなぁ(笑)」。
妻子を連れて、何の展望もなく欧州を放浪。
一見破天荒な行動が、帰国後にもたらしたもの。
人生の土台や歴史があっての店である。この一件で「メジャーとの関わり方」に限界を見たというのだが、その部分だけを読めばミュージックシーンと何の違いもない。同じ理由で苦しんだり悩んだ人がどれだけいることか。
「それは小学校の頃から解ってはハズなんやけどね。ヨーロッパから帰ってきて、トントンと話が来て、『おっ?これで行けるんかな?』と思ってしまった。海外に『行ったから』といって何が起こるわけでも、変わるわけでもない。自分が何かをアクションを起こさないとね。オレは向こうで何かをしたと思ったし、だから日本に帰ってきてすぐオファーが来たと思ったし、だったらもぅ踏み込んでもいい時期なんやと。やけど、性分は変わってなくて、もうちょっと大人になってるかと思ったら、そうでもなかった(笑)」。
以降、また画とそれ以外の仕事を並行しながら、28歳ぐらいまでを過ごす。「20代は着々と子供を増やす時期やった」そうで、現在は5人のお子さんのパパである。一番上のお子さんは既に高校を卒業し、ジロー氏と同じように一人暮らしを始めたそうだ。じきにこの店のステージに? 「いや、一番上は『アンチお父さん』みたい(笑)」。スペインに共に渡ったお子さんである。お子さんが幼い頃、ジロー氏は芸術家が集まっている長屋に住んでいて、要らないからテレビもなかった。「周りが大工系の仕事をやってるツレとか彫刻家とかばっかりやったから、小学校に入るまでは世の中にサラリーマンという人がいることを知らなかったからね(笑)。『大人』ってのは画とか描いてて楽器が弾けて、ゴロゴロしてるもんやと(笑)。それじゃあまりにも可愛そうやっていうんで、テレビを導入した(笑)」。切ないのか頼もしいのか、複雑な話ではある。
そして、一番下のお子さんが生まれたとき、ジロー氏は「アンデパンダン」という店に勤めていた。
少しクセがあって、アーティな雰囲気を持つカフェ、
「アンデパンダン」をつくって、そして…。
とある日、ジロー氏は大切な右手に複雑剥離骨折という重傷を負う。時に’97年、三条通御幸町には旧毎日新聞支局ビルを改装した「1928ビル」ができた。「1Fの『同時代ギャラリー』で作品を出してたりして、オーナーが『(ビルの)地下の使い方なんかないかな?』と。腕は使えなかったけど、内装プロジェクトみたいなことはできたから、『じゃぁ考えてみるわ』と。画廊にしたってライヴハウスにしたって、来るヤツはいっぱいいる。でも全く興味がないヤツにとってはどうでもいい場所で、よっぽどメジャーな人やったら別やけど、展覧会をやってもライヴをやっても、同じ人間が回ってるばっかりで閉鎖的やなというのがあったから、違うものを考えた。ヨーロッパみたいなスタイルで、色んな人間が朝から晩まで好きな形で酒飲んだり、メシ食ったりというカフェにしようと。そういう意味ではたぶん、京都で『カフェ』という冠を付けたのは『アンデパンダン』が最初のような気がすんねんけど」。
それが「アンデパンダン」の始まりである。飲食店というベースの上に乗って、日々の人との関わり、つながりの中で表現活動をやっていけば、もっと広がりが出るだろう。ライヴハウスやギャラリーに足を運ばなかった人間でも、偶然入ったカフェで「こんな表現があるんや」というものに出会い、「じゃぁ今度ライヴハウスにも行ってみよう」と思うチャンスをつくりたかった。「そういう広がりがないと『画廊やライヴハウスの中だけの出来事』で終わってしまう。それでは違うシーンが出てこない」。
店での肩書きは「店長兼デザイナー兼ブッキングマネージャー」。家具もつくったし内装工事もやったし、そこらじゅうでつながっているアーティストたちと連絡をとって、ライヴの企画も立てたしブッキングもした。実際、さまざまな催しが行われてきて、ライヴや個展にとどまらず、時には店のフロアでダンサーが踊りを披露したこともあるし、京都の街において、芸術とか哲学とか、いわゆるそれらしい雰囲気を持つ(それ故に、人によっては少し受け付けないクセも持った)店の代表格として語られるようになった。
幸か不幸か、職人としての仕事を続けられる身体ではなくなったが、思えば、それまでの全ての経験を、全て発揮できる職場環境となった。今までやってきたことの集大成を現出できる環境に、ジロー氏は出会ったのである。