[四天王記] 第一旭 編
清湯豚骨醤油系
ラーメンの保守本流
高校時代にラグビーを始めたとき、まずそこに、美味いラーメンを食べたいという欲求があり、目の前にあったのが[陽龍]という行列のできるラーメン店(詳細後述)であった。後に[第一旭]へと看板が変わるその店は、竹田街道とR24の交差点の棒鼻にあった。そんな頃に宇治に住むチームメイトが教えてくれたのが、学割のある[第一旭 大久保西店]だった。そこにタカバシを市電で行き来し、父親が通っていた[ラーメン店 第一旭本店]の伝説が飛び込んできたのである。
父親は息子に言う。「市電でタカバシを通過するときに、美味いラーメン屋があったはずや!」。ドンピシャ、大久保のそれとタカバシのそれは店名で繋がった。が、しかしメニューが違うのだ。タカバシには顔面がすっぽり入ってしまうような丼のメニュー(ジャンボ)とかが無く、並か特製しかない。しかもケチくさくメンマは別! しかし、その特製はめっちゃくちゃ美味く、ガツンと塩が効いて豚の脂の旨味が染みこんだスープ、そして「これでもか!」なくらいてんこ盛りのチャーシュー、ネギとモヤシもてんこ盛り…。袖岡少年は黙って一気に頬張った。
そんな[第一旭]デビューからすでに30年近くの歳月が過ぎた。それでは、[第一旭]のヒストリーを追いながら、さらにレジェンドの検証をしていこう。[第一旭]に関して、創業年度を云々言う人が多いのも確かである。’53年にまずは旭食堂という大衆食堂として創業しているという事実がある(その時すでに隣には[新福菜館]があった)。そして[第一旭]の看板でラーメン専門店になったのは’56年のことである。
たった3年ではあるが、この間の[第一旭]のことを[新福菜館]と取り違えて語る物言いが結構多く、都市伝説化していることが多い。それが[第一旭]= 洋食屋+[新福菜館]= 中華料理屋伝説である。[新福菜館]は別稿に記すが、ともにラーメン専門店として京都で最も古くからある看板であることに間違いはない。’40年生まれの父親が予備校に通っていた時に行ったラーメン店が[第一旭]なのは、’56年創業なので間違いはないだろう。引き続き[第一旭]発展の流れを見ていこう。
自分の手元に一個のマッチ箱がある。そこに記された[第一旭]の店舗名が、全ての[第一旭]の流れを物語っていると自分は信じているし、このマッチを見ながら代表の佃栄子さんとじっくりとお話しをさせてもらった。
そこにはタカバシ本店以外に、マッチ通りに列記すると、米子店、神戸店、一の宮店、寺田店、小倉店、大久保西店、大久保東店、四条店と書いてある。これに前述の[陽龍]を加えたのが、[第一旭]の本筋である。ではまず、誰もが思う疑問から解決していこう。四条店とは? 場所は堺町四条下ル…である。このお店は’80年代に 自分が[第一旭]に通い出したとき、すでに無かった(’77年閉店)。 なぜか? そう、四条店を切り盛りしていた女将が佃さんだったのだ。で、本店を任されたときに四条店をたたまれたのである。今、初老の紳士がタカバシで自慢げに部下に向かってラーメンの講釈をしながら食べておられたら…その方は大丸か野村證券か? 四条店を知るお客さんであり、きっと佃さんがマドンナだった方である。
また話がそれたが、米子店、神戸店、一の宮店と京都以外の支店名が上に並ぶが、これが先代の親子筋といえる流れ。米子店は残念ながら店をたたんでおられるが、神戸店は[神戸第一旭]として発展し、一の宮店は、現在[尾張ラーメン第一旭]として一の宮や名古屋に店舗がある。
で、ここからが本題。京都の[第一旭]の流れである。寺田店というのが次に出てくるのだが、この店が第一旭中興の祖ともいえる店であり、佃さんが自らの手で最初に立ち上げた店である。そんな寺田店を受け継いだのが佃さんの弟さんであり、広く[第一旭]の名を全国に発展させたアイデアマンだった。特製をスペシャルと呼び、そのチャーシュー厚切り版をデラックスと名乗らせ、さらに大盛りやチャーシューを甘辛く炒めて載せるターローというメニュー、そして大盛りのトッピング少なめを学割として高校生以下に確か300円台で提供していたのが、この寺田店である。いわばタカバシ本店以外の[第一旭]の総本山といえるのが、この寺田店なのである。小倉店、大久保の西・東店は、寺田店の流れを汲む古参店と考えていい。そして、謎の[陽龍]であるが、[第一旭]いや、それ以上のポテンシャルのラーメンで、伏見のうるさいオッサン達を唸らせていた。
その店が、’86年に突然[第一旭]に看板が変わった時は驚いたが、そもそも佃さんの親戚筋であった店だったそうだ。現在[陽龍]の職人さんが深夜の[第一旭]本店のラーメンを作っておられる。
[陽龍]の濃い味ラーメンは確実に今も[第一旭]に伝承されているし、日付が変わる頃に作業服や白手袋な方の行列ができることがそれを物語っている。結構古株の職人さんが深夜や朝におられるが、やはり塩が効いて脂がガツンのオールド第一旭を好む客が来る時間と、新しい時代のしゅっとした美味さのラーメンを嗜好するファンが通う時間帯とで職人を使い分けておられるのは凄いと思う。それこそ、マーケティングなんて言葉では語れないものである。
最後にラーメンと関係ない話であるが、自分の人生の中で初めて温かい烏龍茶を飲んだのが[第一旭]である…と言ったら、皆笑うだろうか? 中国料理店(東華菜館や桃園亭といった、京のグラン・チャイニーズ)でさえ、お茶は確かジャスミンティだった頃に[第一旭]では、ジャーポットに入った烏龍茶がカウンターに置いてあり、何杯でも飲めたと記憶する。脂分を分解する烏龍茶の性質と、京都でラーメンを食べるという濃い味Qな関係の妙みたいなものが、もの凄く粋に感じたことを未だに思い出す。これまた、全国[第一旭]の総本山・寺田店を切り盛りしたアイデアマン、佃さんの弟さんが「脂には烏龍茶」と30年も時代を先取りして始められたことだそうだ。
[第一旭]がカルチャーだと思うのは、そんなレジェンドというか物語が、どんどんどんどん出てくる、本当に粋なラーメン店であるからだ。馴染みの料理店や割烹を持つことと同じくらい…いやそれ以上に[第一旭]の馴染みであることを、自分は京都人として誇りに思う。それが解らない人は、一生京都の街で目一杯遊ぶということの粋が解らないのではないだろうかとさえ、思ってしまうのである。