ガァーガァー言わんと放っておくことですよ。byコシノアヤコ
ファッションデザイナーとして活躍するコシノヒロコ・ジュンコ・ミチコの「コシノ3姉妹」を育て上げ、自らも晩年同じ職で活躍し、2006年に死去した小篠綾子の生涯を実話に基づくフィクションストーリーにして描くNHK朝ドラ・カーネーション(連続テレビ小説「カーネーション」)。
1924年(大正13年)9月、岸和田の呉服商の娘「小原糸子」(おはらいとこ)が「女にしか出来んことを見つけて自由に生きたい」と裁縫の道を選び、女学校を中退する。20歳で洋装店を開き、22歳で結婚。出征した夫の戦死後、女手ひとつで娘3人を育てる涙と笑いの子育て奮闘記だ。
前半総集編が2011年の大晦日に放映されるが、これまでの平均視聴率は20%内外を誇る。
「おはらいとこ」こと「コシノ アヤコ」さんのインタビューを弊誌1998年3月号ネイキッドアイで五所光一郎が行っている。5年前にお亡くなりになった綾子先生を偲びながら再掲させていただく。
コシノジュンコさんのスペシャルインタビューも1991年7月に行っているので後日公開したい。(写真右)
ガァーガァー言わんと放っておくことですよ。
コシノブランドプロデューサー コシノ アヤコ
AYAKO KOSHINO
fashion producer & designer
Naked Eyes extra edition Lady Special
interview:Kouichiro GOSHO
photo:Toscio TOMITA
一九一三年、和服生活中心の時代に呉服商の小篠家の長女として大阪は岸和田に生を得た。大正ロマン前兆の夢多き時代といえども、男尊女卑が社会通念で女が職業を持つことは蔑まされた時代感が現存していた。
「食う米がない訳じゃなし、女学校まで入ってるのに何で仕事持たないかんねん。一族の面汚しや」。親戚からは人間と認められない迫害を受けた経験を持つアヤコは、洋裁の道で職に就こうと退学を決意した。十六の時である。
以降五年の修行の末、二一歳で父の呉服店を改修して洋裁店を開店。その半年後には父の決めた養子縁組を結び、他人事のように結婚式を挙行させられた。三日間連続の披露宴はまるで父の宴で、新婚旅行というものもなく、その翌日から仕事仕事の連続で働き詰めの日々であった。世間ではまだ洋服が珍しく、仕立てる毎のデザインの度に評判を呼び、夫の紳士服のテーラーともども繁盛の機運は、その忙しさに感じとることができたようである。「洋裁店や言うても、その頃はミシン屋さんや。洋裁店、洋品店、ブティック、オートクチュールは後々のネーミングなんや。勿論デザイナーなんてコトバはなかったからな」という彼女は大正生まれのキャリアウーマンとなり、岸和田の洋裁店から世界のデザイナーを排出することを予測していたであろうか。女性の地位向上に果たした役割を評価され、その生き方は多くの女性に勇気と希望を与えるものとして、第一回大阪府女性基金「プリムラ大賞」を受賞。実に一九九三年、八〇歳の時である。日本の文化、政治風土のローレベルを感じるのは小生だけであろうか。
さて、戦死された夫との短い結婚生活で仕事以外興味を示さなかったアヤコも、二四歳で長女ヒロコを、二年後ジュンコを、六年後ミチコをと、三人娘の子宝に恵まれた。この三人姉妹が世界のファッションデザイナーとして、個々の個性を際だたせ各都市コレクションで喝采を浴び時代を創っているのは衆の知る処である。親子四人のデザイナーズブランドを成功させたプロデューサー能力は前代未聞の快挙である。こんなエピソードもある。上京して文化服装学院に通う娘に会いにゆくと、毎度のように高田賢三をはじめジュンコの友人十人くらいが待っている。「お金あらへんからお母ちゃん待ってたんや。三日間みんな何も食べてへんかってん。お腹ペコペコや」。行く先は決まっていた。新宿駅前のトンカツ屋「すずや」だ。各々が五人前ぐらいを平らげてしまう連中ばっかりで、さすがのアヤコも当時は財布の中身が乏しくなってしまう。しかし、その姿を見ているだけで嬉しくなる性質なのである。そんな気風の象徴になる例はパリでもロンドンでも枚挙にいとまがない。世界を巡る売れっ子デザイナー達も今尚「お母ちゃん」と呼ぶ。親愛敬愛を込めて気をゆるす人達は彼女を「お母ちゃん」と呼ぶのが業界の習慣なのである。歯に衣きせぬ台詞を期待して、お母ちゃんに問いかけてみた。
私の人生は成功より失敗の方が多いんですわ。だから、自分が素直に感じるもの、直感力を信じて生きてます。これはコシノの天性の血かな。ヒロコも、ジュンコも、ミチコも、共通して優れていて、デザイナーとして生かされ大成している。
そうそう、それとな、共通した性格、心情というなら「Give & Give」の精神やな。つまり、おかえしをあてにしない遣りっぱなしの親切でんな。
ガァーガァー言わんと放っておくことですよ。細かいことを言うよりも、大きな目で子供を見てなさいということ。私の仕事ぶりを見せることが「こう生きんねんでぇ」って教えになってんねん。望んだんは、懸命に生きて自分に責任を持てる子。責任持てるんやったら、どこの学校へ行こうと、どこで誰と恋愛しようとかまわへんでしょ。決して、そうしようとしてしたことやあらへん。しかし、自分の腕一本で二十人からの社員も食べさせていかんならへんもん。ご飯とコロッケで、住み込み状態での忙し紛れの結果なんですわ。放っといたかて完全に放っとけますか。可愛い娘を。店主の忙しさを極めても、母として、父親代わりとして、子煩悩は変わらへん。
人生は一つのパーティやから。毎日がパーティの方がええ。よく遊びよく学べや。沢山のお誘いを受けるけど、必ず嫌といいまへんね。どんなパーティでも大好きですわ。
講釈すると、宝物が拾えるんですよ。「出逢い」という宝物でんがな。今日コシノがあるのも、パーティで拾えた宝物のお陰ですよ。ここぞという時に助けてくれるのは、ええパーティでお逢いして、利害抜きで飲み食べ踊り、信頼を永く培うてきた人達でんがな。宝物達と一緒に人生はすべからく楽しまなあきまへんやろ。
ヒロコの服も、ジュンコの服も、上はいいんやけど、下は何買うても入らへん。肩の凝らへん変形スタイルのファッショナブルな服が、世の中にあらへん。他の人も困ってるやろ。誰もやらへんからたまりかねて私が役に立とうと思ったんや。それに三人とも認められて、私の出る幕やないと気づいたんや。ほなら自分の生きる道を創らにゃあきまへんもん。
「これから、皆がお返しするんや。今更苦労することない」と言うてだいぶ怒られたけど、「お返しはしていらん。わたいは自分で生きていきたいんだ」って言うたりましてん。
生活ファッションは皮膚で感じとるもんだから、今の時代を生きてる人がええんや。済んでしまえば過去のこと。次のページが出てるのに前のページをめくり返す必要はあらへんのや。新しい楽しいページを創るのはあなた達なんや。磨かれた自分の感性は誰にも盗むことはでけへんのやさかい。自分の感性は貪欲に磨いてモノにしておかないと損や。今のうちやで。熱中しいや。面倒臭がったらあかん。おしゃれに輝いてよう思たらエネルギーがいる。
エネルギー全開の迫力で取材を終えた。対話する程に小生のエネルギーも沸き立たせられ、隠れ潜む能力を開眼させる魔力をコシノに感じた。大阪弁の庶民感覚が心の扉を開かせ、だんじりの太鼓の音が身体を弾ませるかのごとくやる気を創出させる技を神から授かっているのであろうか。大正、昭和、平成を駆け抜ける高齢の彼女は今も青春を生きている。まさに高齢化社会のフラッグシップである。「心身の健康に気をつけます」とご挨拶するのは我々であることを知らしめたコシノは「謙虚」という自然体を肝に銘じているという。
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