進々堂:京都パン史
進々堂、そして志津屋。
京都人なら誰もが一度は食べたことのあるパンがある。それは店の歴史に付加価値を付け、「京都ブランド」といった肩書きで消費されるものではなくて、京都人の生活にしっかりと根付いたもの。進々堂と志津屋、今では街を歩けば当たり前のようにある二つのパン屋の物語。
街場で愛されてきた店は、京都パン史と共に…
BOULANGERIE ブーランジュリー 進々堂
80年の時を経て和の食卓に花開く
フランスパンのソコヂカラ
重厚な煉瓦造りの建物に、何か吸引力でも働いているかのように地元マダムが、ビジネスマンが、外国人観光客がひきも切らずにやって来る。トングを手に持ち、真剣な面差しの人、のんびりとモーニングを頼む人…。朝っぱらから賑やかでいつもの平穏な風景を、およそ100年前から提供し続ける。
創業者の続木斉は熱心なクリスチャンだった。愛媛県出身の彼は上京後、平和主義の急先鋒に立つ内村鑑三の門下生となり、後に伴侶として迎えるハナの兄・鹿田久次郎に出会う。久次郎は生まれ育った京都でパン屋を営んでいた。「俺の後を引き継いでくれないか」。キリスト教の見地から社会改良運動に専念したい久次郎は、続木斉・ハナ夫妻にこのように打診した。そこで「進々堂」の名を掲げ、前身のパン屋から再出発したのが大正2(1913)年のことである。
当時、京都のパン事情は惨澹たるものであり、市内のホテルやレストランはわざわざ神戸から良質のパンを取り寄せる有様。パン屋としての矜持に燃える斉は、世界で最も美味しいパンを求めてフランスへ渡ることを決意。大正13(1924)年、日本人初のパン留学生がここに誕生したのである。40日間の過酷な船旅の末、辿り着いたパリで出会った本物のフランスパン。「包皮は普通のパンより堅く 肌理(きめ)は少し粗なるを喜ぶ 中味はクリーム色に出て 香りは深く味わい高し」と、斉は詩に書き残している。
足掛け3年にも及ぶヨーロッパ留学終え、帰国した彼はさっそく当時としては最高品質のドイツ製オーブンとアメリカ産のイーストを取り寄せて、本格的なフランスパンの製造に取り掛かる。しかし、柔らかい食感を嗜好する米文化の日本において、堅いパンはまったくと言っていいほど受けが悪かった。売れない日々が続く。だが、店頭からフランスパンが消え去ることはなかった。「本物はきっと伝わる」。そんな信念を盾にして。
進々堂の社訓には「パン造りを通して神と人とに奉仕する」という斉の言葉が残っている。ここでいう「神」とは世間。己が「美味しい」と信じたものを辛抱強く、世間様に認知していただくまで努力をする。必ずしも社会の風潮に媚びへつらうことが「奉仕」とは限らない。そのかいあってか現在、日本の食卓にはフランスパンが当たり前のような顔をして鎮座する。長い道のりの末、真の輝きを秘めたるものはいつしか世間に受け入れられ、文化の波に飲まれていくのだ。
進々堂 寺町店
京都市中京区寺町通竹屋町下ル久遠院前町674
075・221・0215
7:30〜20:00/無休
http://www.shinshindo.jp/