還幸祭 三条台村をゆく
丹波八坂太鼓を招聘した吉川会長の笑顔を、この日初めてここで見た。
太鼓への拍手だけではない筈だ。
ひょうきんに踊る祇藤会の若衆に、
満場の笑顔を共有できたこの時空間に、
惜しみない拍手と笑顔を見せられたのであろう。
さて、「いくぞー」と声があがる。差し上げ、差し回しである。
神幸祭の日、祇藤会で赤襷を貰って、拝殿出しの黒棒が担げると、
無邪気に大声を出して喜びを隠さなかった男、小島健。
その日の3日後、男の子が生まれ、二児の父親となった。
あの日の赤く腫れあがった小島の肩は、まだ癒えていない。
そして今日、この踏ん張りを見せている。
おまけに、生まれたばかりの男児を立派な神輿担ぎにさせたいと言い放つ。
祭り馬鹿としか言いようがない。
実は、彼が10代の頃、小生が臨時講師をしていた頃の教え子で、
今も、先生と呼ぶので、こちらが照れてしまうのだ。
小島が差し上げ゛、金光が引いた。
四条大宮の交差点で差し回された中御座は、大宮通を北上する。
まだまだ京町家や、ろーじが残り、
今にも、「お神輿さん 来やはったでぇー」との声がしそうな雰囲気が残る。
この界隈の人は、家族、親戚総出で神輿を迎えてくれている。
祇藤会の輿丁はこう言う。
「お年寄りの人は、今でも、神輿に手を合わせる方がおられます。
グッと来ますよ。責任重大だなとも・・・神輿担いでいてよかったとも・・・」
まさに、ここは「三条台村」なのである。
三若が中御座・東御座・西御座の三座を担いでいた頃から、
何ら変わらずに、受け継いでこられた神輿への思い入れであり、
地域文化として根付いている所作なのかもしれない。

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そんな風情の中、御池通に面する「神泉苑」に辿りついた。
今は手狭な敷地となっているが、祇園祭の始まった平安時代には、
広大な平安京の内裏のあった南東の苑池の一角にあたる。
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66本の鉾を建て、祇園社より神輿三座が送られ、祇園御霊会が行われたところである。
中御座を前に、僧侶と神官が居並び祭典が執り行われたのである。
「京都よかろう太鼓」の奉納があり、
ここで観たものは、東寺の僧侶による真言と、僧侶による神道の二拍手であった。
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この後、御池通を西へ、千本三条でのお迎えを受け、
三条商店街を進み、御供社での祭典を行うのである。
この御供社の場所が、往時の神泉苑の南東の角にあたり、
神輿を奉安し神饌を供え、御霊会を行った
祇園祭の原点となる場所だと伝えられている。
祭典の間の依り代となる「オハケ」が見える。
その上には、三若会所にあった掛け軸が掛けられていた。
御旅所内には、八坂神社宮司の祝詞奏上に始まり、
宮本組の役員が裃をつけ祭典に参列し、玉串の奉奠が行われた。
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この間に、三若は今朝弁当打ちされた神輿弁当を大宮公園で取り、中御座の保安警備にあたる。
祭典を終えると、三若の提灯に灯が入り、
御供社発輿の差し上げが行われ、いよいよお還りの途に着く。
三条通を東進、寺町四条へ、そして八坂神社へと。
次々と御供社前に到着した、東御座、西御座 も、ここからは同じ巡幸路となる。
中御座に着き歩き、三条台村は温もりのあったところだと分かる。
そこで生まれた三若も言うに及ばす、その遺伝子を持っていた。
祇園の神輿を担ぐという共有が、更に、同志として強く結びつけている。
故奥田哲郎は、行き所のない者の心を神輿で結び、
三若の温もりで包んでいたのだろうか。