西山に西行桜を見た、ソメイの桜吹雪を見た!
勝持寺
以前訪れた時は、西行桜が散り始め葉桜になりかけていた。
盛りを捉えたいが、なかなか日程を合わすのも一苦労する。
丁度いい空の朝、まっしぐらに大原野へ向った。
この門を潜ると・・・桜の園が待ち構えている筈だ。
気持ちが高揚してきた。
西行が植え、愛したというしだれ桜の「西行桜」は、鐘楼堂のそばに立つ。
西行桜をあちこちから眺めてみた。
「謡蹟 西行桜と花の寺」
西行は藤原房前の後裔、田原藤太秀郷九代の孫で、元永元年(1118)に生まれ、文治六年すなわち建久元年(1190)歿したとされるが異説もある。祖父以来の徳大寺の家臣で、鳥羽院に出仕、北面の武士佐藤義清(憲清)として特に鳥羽上皇に寵を受け、将来を嘱望された。
ところが23歳のとき上皇の慰留をも辞退して出家した。元来強烈な性格であり、出家の原因は色々に推測されているが、公武の争いによる政界の暗雲、相次ぐ知人の死、自身の恋愛問題、等々複雑に絡み合った心境によるものらしい。
従五位左兵衛尉の官位も妻子も捨てて保延6年(1140)京都嵯峨野の奥、勝持寺(花の寺)に入って得度する。円位と号し暫くここに庵を結び修行する。
西山の西行法師の庵の桜が満開で、毎年春になると大勢の人々が桜を愛でに訪れたという。
西行は断ることも出来ず庭に通すが、閑居を妨げられるので、厭わしく思っていた。
「花見んと 群れつゝ人の来るのみぞ あたら桜の とがにはありける」と、
その心境を和歌に詠んだ。
その夜、西行は夢をみる。
白髪の老人が木陰から現れて、西行の詠んだ歌を口ずさみ、
「この歌の心を尋ねたい、桜のとがとは承服できない」と不満を洩らすのである。
桜は非常無心の草木であるから、浮世のとがなどは無いのだと言う。
そして、自分は桜の精だと名乗り、西行に逢えたことを喜び、桜を讃えて舞を舞った。
春の夜を楽しみ、やがて夜が明けると、老桜の精は別れを告げて消えるのである。
まもなく西行の夢も覚める。
あたりは一面に敷きつさめたように桜花が散り、
人影も消えていた、という西行桜のストーリーがある。
ここ勝持寺の境内を歩く間に、西行桜のストーリーが体験できたようだ。
今週末まで、このドラマは見られそうである。
花の寺・勝持寺
京都市西京区大原野南春日町1194
075-331-0601
地図