料理の神のまつり / 吉田神社 山蔭祭
1100年の継承が作りなす京料理
吉田神社は、清和天皇貞観元年4月(西暦859年)、従三位四条中納言藤原山蔭卿(ふじはらやまかげきょう/824〜888)が、春日の四神を勧請(かんじょう)し、平安京鎮護を目的として、吉田神楽岡吉田山に創建された。
といってピンとこられない方も、赤、青、黄の鬼を四つ目の方相氏が追い払う鬼やらいなら、「節分会の吉田神社のことか」と合点されるだろう。
平安時代の宮中行事追儺式を再現した節分会は、御所の表鬼門を護る由緒高き吉田神社が代表格で、毎年50万人の参拝客を集めている。
その吉田神社の境内にある摂末社は十社を数える。
その中に、「料理の神」「お菓子の神」の二社があり、京料理や京菓子の業界に多くの崇敬者がいる。
その「料理の神」の大祭が、毎年5月8日に境内にて執り行われているが、一般にはあまり知られていない。
当日、京都の料理飲食業のそうそうたる関係者が見守る中、例祭にて「生間流(いかまりゅう)包丁式」の奉納等が厳かに執り行われ、業界の繁栄を祈願している。この日がご覧になる絶好の機会である。
小生は京料理展示大会(みやこメッセ)の折に、生間流(いかまりゅう)式包丁儀式「神巌の鯉」を拝見したことがあるが、西陣の「萬亀楼」で式包丁を伴っての有職料理をいただいたことがない。頂きたくとも未だ十万円を越す予算が見出せないで、京料理はおろか竹籠弁当どまりである。
いつか、宮家より伝わり1100年の継承がされている式包丁にて、烏帽子、袴、狩衣姿のいでたちで、手を使わず、包丁と菜箸のみで魚を捌く妙技を前に愛でて、その後の有職料理を賞味したいと思うばかりだ。
つまり、萬亀楼に予約せずに式包丁を愛でるには、京都にいても年数回の機会しかない一回を、見落とすわけにはいかないのである。
さて、「生間流(いかまりゅう)包丁式」の奉納がある山蔭神社の祭神が、吉田神社創建に貢献した藤原山蔭卿であることに触れなければならない。
山蔭卿が勧請した奈良春日大社の四神は、武甕槌命(タケミカヅチのミコト)、経津主命(フツヌシのミコト)、 天児屋根命(アメノコヤネのミコト)と 比売神(ヒメガミ)で、あらゆる食物を始めて調理調味づけた始祖であり、古来包丁の神、料理・飲食の祖神ともされている藤原氏北家の氏神である。
創建に貢献した山蔭卿は、平安貴族藤原高房の次男で、諸官を歴任後、清和天皇の側近として蔵人となった。清和天皇崩御後も陽成天皇に仕え、仁和2年(886)従三位中納言となり、歴代の天皇に仕える信任の篤い人物であった。
一方、吉田神社、真言宗西国三十三箇所観音霊場を創建するなどの貢献とともに、調理・調味づけにも秀でた人物と言われており、光孝天皇(830〜887)の命により、自らが編み出した「四条流庖丁式の創始者」となった。
そもそも、朝廷の料理は宮内省内膳司の主管であったが、唐から伝えられた食習慣、料理法、作法に通じた識者として、本膳料理の形に結実させるに適任と光孝天皇に命ぜられ、内膳職でない山蔭卿が見事に応え確立したようだ。
その後、四条流は家職として四条家に伝えられ、室町後期に「四条流包丁書」が記された。
聞くところによると、四条流では「刺身に添えるわさびと塩は接して並べる、酢も添えるべき…」と記されているという。誠に先人には学ぶところばかりである。
現在も藤原山蔭卿は、「日本料理中興の祖」とされている。
このように吉田神社に関わり、自らがその境内に祀られた藤原山蔭卿。
その山蔭神社の大祭に詣で、京料理を鑑みるのも一考ではあるまいか。
吉田神社
http://www5.ocn.ne.jp/~yosida/
有職料理 萬亀楼
http://www.mankamerou.com/
春日大社
http://www.kasugataisha.or.jp/