坂本龍馬と京おんな お龍
「まことにおもしろき女」は歴史を支えた
慶応2年(1866年)、薩長同盟の成立を悟った新撰組によって伏見の寺田屋が包囲されたとき、お龍は風呂に入っていたが、素っ裸に浴衣を羽織り飛び出して龍馬に危機を知らせ救ったとされる寺田屋事件。
その直後に、中岡慎太郎(1838年〜1867年)を仲人に龍馬は恋人だったお龍と婚姻し、小松帯刀(1835年〜1870年)の誘いで薩摩へ旅したといわれている。
薩摩藩家老職にあった小松帯刀が、薩摩に妻千賀(お近)を残し、京都の愛妾に16歳前後だった祇園の名妓「琴仙子(琴子)/ 三木 琴」を迎え、長男安千代が誕生した頃である。
幕末、地方から京を目指して来た血気盛んな若き志士たちが、祇園や島原に遊び、愛妾や妻を迎えることは至極普通のことであったようだ。
ところが、龍馬や慎太郎に至っては、小生の知る限り、他の志士にある決まった特定の愛妾の名を目にすることがない。
龍馬が愛したお龍は花街の芸妓ではなかった。
本名は楢崎龍(ならさき りょう/1841年〜1906年)で、京で医業を営む楢崎将作を父に、母重野貞の長女として裕福な家庭に生まれた。
楢崎将作は若い志士が頼ってくると金品を与え親切に面倒を見、数人の食客も滞在していたようである。楢崎家は元長州藩士で、楢崎将作は尊王の志士らとも交流があり、1858年、安政の大獄では連座して捕えられている。
その楢崎家を顕彰する「坂本龍馬妻お龍の実家 楢崎家跡」の石碑が、平成20年、中京区柳馬場三条下ル「晃庵」前に建てられた。
釈放後1862年に楢崎将作が亡くなると、家屋敷も処分するなど楢崎家は次第に困窮生活となり、四条木屋町裏あたり(木屋町六角下ル都会館「龍馬」前)の借家に移り住むことになった。
20歳前後のお龍は家族を養うため神奈川宿の旅館・田中家に働きにでるが、その後、間もなく旅館を辞めて天誅組残党の賂いとなり、天誅組が幕府の追討を受けると、放浪を繰り返し、一家は離散することになった。
その後、母貞と妹は、洛東大仏南門前(現東山区本瓦町付近)の河原屋五兵衛の隠居所に住み込みで働き、そして、お龍は七条新地(現五条楽園)の「扇岩」の手伝をすることになる。
なんと、河原屋五兵衛の隠居所は土佐亡命志士の隠れ家に借りられていたところで、天誅組の残党のほか、この家には才谷梅太郎、石川誠之助もいたのである。
ここが龍馬とお龍の運命の出会いの場となったのだ。才谷とは坂本龍馬、石川とは中岡慎太郎の別名である。
お龍は母、妹に出逢うため何度となく訪ねてきていたのである。
おそらく、訪れる度ごとに親しくなり、龍馬はお龍の自由奔放なところを気に入り、恋に落ちたと思われる。
平成21年3月に木屋町六角下ル都会館「龍馬」前に建碑された「坂本龍馬妻 お龍 独身時代 寓居跡」の解説に、
「・・・龍馬の書翰に記載されたお龍(鞆)の個性を知るエピソードに、妹光枝が悪い輩にだまされて大坂の遊郭に連れて行かれたが、彼女が単身乗り込み、ついに連れ戻すというものがあります。・・・・・、龍馬が『まことにおもしろき女』と愛したお龍(鞆)のゆかりの地として・・・」とある一説にも、龍馬が愛した姉乙女にも似たお龍の気質が表れている。
お龍を表わす記録に、「どちらかといえば小形(小柄)の身体に渋好みの衣服がぴったり合って、細面の瓜実顔は色あくまで白く、全く典型的の京美人であった」というのがあったが、まるでその通りの芯が強くやさしい顔立ちの写真を見た。
龍馬は七条新地の旅館「扇岩」から愛するお龍を連れ出し、投宿に使っていた伏見の寺田屋に奉公させることにし、寺田屋の女将・お登勢はお龍の名をお春と呼ばせ、自分の養女分として、坂本龍馬付の女中格にしたのである。
お龍の回想録「反魂香」(雑誌「文庫」連載第一回 明治32年(1899)2月11日 安岡秀峰 聞書)に、「元治元年(1864)八月一日に金蔵寺の住職智息院が仲人となって本堂で内祝言をした」との記載を見つけたが、その直後に行ったものであろうか。
いみじくも、東山区三条通白川橋東入五軒町 東山ユースホステル前に「此付近 青蓮院塔頭金蔵寺跡/坂本龍馬 お龍「結婚式場」跡」の碑が平成21年9月に建てられている。
龍馬はお龍を伴い京都を出て(2/29)、大坂より出帆三邦丸にて長崎に入港(3/8)し、霧島温泉などの温泉を巡り、88日間かけて鹿児島に入った。約2ヶ月鹿児島に滞在すると、長崎に向かい小曽根邸にお龍を預けるや(6/4)、下関に出向き桂小五郎会い兵糧米を受け取り、ユニオン号を率い幕長戦争(第2次長州征伐)の四境戦争に参加(7/4)、薩長合弁の商社設立を計画(11月)するなど倒幕に向けて果敢に動き出した。
翌慶応3年4月海援隊隊長となり、5月紀州藩とのいろは丸事件を解決、9月お龍を長崎から連れだし下関で三吉慎蔵に預けるや、6年ぶりに土佐の実家に帰った。
あたかも死に急いでいるようにも思えるほどの行動である。激動の道をゆく龍馬のお龍との時間は短かった。龍馬が長崎でグラバーから買い求めたS&Wモデル 22口径の拳銃は二丁で、うち一丁をお龍に持たせていた。しかし、お龍自身は龍馬の事業や仕事には全く興味が無く、龍馬も自らの歩いた道のことをお龍には何ひとつ話していなかったという。
土佐藩の郷士の家に生まれた龍馬は別名を才谷と名乗ったが、才谷屋は坂本家の本家で、武士を相手に金貸しなどをしていた豪商であったようである。激動の幕末に幅広く、時の権力者と交流できた龍馬は、その商才を武器商人としての役割で果たしていたことは間違いない。
武家の郷士は武士の仕事だけでは暮らしていけない貧乏武士の事で、商売もやらねばならない身分であった由縁であろう。
お龍の晩年は大酒を飲み、酔うと口癖のように「私は龍馬の妻だった」と言っていたようで、明治38年(1906年)横須賀にて66歳で死去したのち、夫の西村松兵衛は、横須賀の信楽寺の墓碑に「贈正四位阪本龍馬の妻龍子」と刻み、お龍の分骨を密かに京都東山に眠る京都霊山護国神社の坂本龍馬墓に埋葬したと伝わっている。