どこで撞く除夜の鐘
明るく平静な一年がくるよう鐘の音に込めて
新年がもうそこまでやってきている。
ゆく年の総括をして、迷いを持ち越すことなく、真新しい真っ白な気持ちで新年を迎えたいものである。
そして、いくら難問を抱えていたとしても今あることに感謝し、決意新たにスタートの切れる朝でありたい。それには、除夜の鐘をひと撞きするのが一番である。
静寂を突き破る18秒間の響きに、耳を澄まし、心を澄まし、体ごと包まれれば、きっと新しい朝が訪れるだろう。
いかなる憤怒も、憎しみも悲しみも、そのひと撞きでかき消され、響き渡る余韻に、心の静まりを覚えない者はいないはずである。
ならば、大晦日、どこで鐘を撞けばよいか。
除夜の鐘は百八つ撞くのが習わしであるが、列を組んで並んでも、「ハイここまで」と直前で打ち止めとなれば、心の鎮めようもなくなる。
しかし、そんな方にも慈悲深く撞かせてくれるところがある。
ひとつは、牛若丸や天狗伝説で知られる左京区の鞍馬寺(075-741-2003)である。事前予約も不要なら、整理券が配布されることもなく、鐘を撞くのも無料である。
ただただ、23時45分に本殿西北にある鐘楼の前に行けばよいのである。
管長の撞き始めのあと、制限人数なしで必ず撞かせて貰える。
但し、くれぐれも道中の足の確保に注意をされることだ。
叡山電車の鞍馬駅の終電車は23時43分、始発は5時34分である。
その他には、東山区粟田口の青蓮院(075-561-2345)、左京区鹿ヶ谷の法然院(075-771-2420)、右京区嵯峨の大覚寺(075-871-0071)、伏見区深草の瑞光寺(075-641-1704)、山科区安朱の毘沙門堂(075-581-0328)などが撞かせて貰える。
広報されている資料には、「必ず撞ける」とは記されていないところもあるが心配はない。
粟田御所とも呼ばれる天台宗の門跡寺院青蓮院は、1月1日午前0時からの寝殿で行われる法要にも参列ができる上、そのお勤めのあと、宸殿前苔庭の鐘楼に移り鐘を撞くことになる。
「撞ける人数500人」と発表されているのは、108つの制限はないが、番号の最後までは撞いて貰うということだろう。つまり先着500名となる。
知恩院さんの北側にあることからすると、日本三大梵鐘の知恩院の鐘が撞かれているところを見て、「えーいひとつ」「そーれ」の掛け声のように撞きたくなって、お隣へ訪れる人もいるかもしれない。
親綱を引く僧侶と子綱を引く16人の僧侶が遣るようなわけには行かずとも、どこかで撞かないと収まらない気持ちは分らないでもない。
となると、知恩院の撞き始めは10時40分なので、8時30分に大鐘楼へ入場して撞き始めを見て、11時30分の青蓮院の開門に向かえば可能となる。
後者の法然院は「一般参加自由」と報じられているだけで、鐘の撞く回数の制限は特記されていない。
参加した人の話によると、「108つを過ぎても、並んでいる人が途絶えるまで撞かせて貰えましたよ。」と聞く。
梶田住職のお人柄からして、「並んでいる人を帰すわけには行かないでしょう。」と、今にも言われそうなことと容易に想像できる。
左京区では、大原まで足を伸ばすと、浄蓮華院(075-744-2408)や勝林院(075-744-2409)も事前予約不要で、制限回数や時間制限もなく、撞き始めに並んでいれば撞かせて貰える。
上京区の清浄華院(075-231-2550)に相国寺(075-231-0301)も同様で、右京区山越の印空寺(075-872-4625)は、午後6時から配布される番号札を貰っておけば、人数制限なしに撞かせて貰えるとのことだった。
残念なのは、右京区嵯峨の大覚寺(075-871-0071)である。
事前予約不要で制限回数もないのだが、1時30分頃までとの参拝時間制限がある。夜を徹して貰えないのだ。
近所迷惑と考えられているのか、朝まで待っているわけにもいかず適宜行事を終えられたいのか、終了の目処を時間で制限されているのである。
小生なら午前0時までに参拝され鐘撞きを申し出られた方は全員とするか、鐘の音が途絶える時までと表現するだろう。
実際の現場では、制限時間の目処の頃に100人並んでいれば、全員の方が撞かせて貰えるとは思うのだが。
何故なら、108つの制限を設けられていない上に、制限時間を「頃」とされている点に加え、参拝者全員に「勅封心経御守の授与、甘酒の接待」を謳われているからである。
できるだけ多くの方に、人の心を惑わせたり、悩ませ苦しめたりする心を鐘で祓って貰い、新たな年の幸せをお祈りして貰おうとする夜だとの意が、そこに汲み取れるのである。
つまり、行事ごなしとは考えられていないことがわかる。
数多寺院のある京都で鐘が鳴る夜。
僧侶が撞いてそれを見物するところあり、煩悩の数108つに限定し予約をとるところあり、有償無償の整理券を配布するところあり、制限回数を設けず制限時間を設けるところと、様々な解釈と思惑と都合で鐘が鳴る。
一年の最後の大晦日の日を、古い年を除き去り新しい一年を迎える日と解し、「除日」と呼び、その日の夜を「除夜」と呼び習わし鐘が撞かれてきた。
古き作法では、大晦日の晩に撞くのを107回、残りの1回を、その年の煩悩に煩わされないようにといった意味を込め、新年になってから撞かれていたという。
そして、年を超える度に撞かれてきた鐘が、祈りを込めてまた今年も撞かれる。
ゆく年に起こった未曾有の複雑難解な問題が、除日の一日を以って白紙へと除き去ることはできないことは、百も承知の上である。
せめて一時たりとも、心の安らぎをひと撞きの鐘の音で得られるものなら、誰もが撞きたくなって当然であろう。
ゆく年からくる年へ、除夜の鐘を大合奏して、夜明け前まで鳴り響かせたとしても足りない気がする。
しかし、明るく平静な一年がくるよう鐘の音に込めて、心の絆がひとつになればいいと思う。