広隆寺 聖徳太子御火焚祭
白い煙、赤い炎、青い空、色づく紅葉
聖徳太子建立と伝わる寺院は奈良だけではない。京都にもある。
頂法寺太子堂、沐浴の池のある通称六角堂と、法観寺太子堂、薬師堂のある通称八坂の塔、そして、国宝第一号に登録されている弥勒菩薩像を護る広隆寺(蜂岡寺)が挙げられる。
聖徳太子(574〜622年)といえば、推古天皇の摂政として、遣隋使派遣(600年)をなし日本に仏法をもたらし、冠位十二階を設け(603年)、十七条憲法を制定し(604年)、律令政治の礎を作った人で、日本史上未来永劫に褪せることのない名の人物である。
その顔や装いは、平成16年(2004年)まで使用された旧一万円紙幣の肖像にあり、国民にとっても広く馴染み深い。その札に夢殿の透かしが入っているように、太子の縁の地は奈良斑鳩が浮かび、飛鳥時代の活躍を思い起こさせる。
用明天皇の第二皇子(厩戸皇子/うまやどのおうじ)として出生し、女帝推古天皇の皇太子となり、蘇我馬子一族と共に天皇を補佐していた。つまり、奈良時代を経て、平安時代に活性する京都には縁の遠い人のように思っていた。
ところが、古代大和国家の財政を影で支え、聖徳太子の参謀であった人物が、山城の国太秦を本拠地とする富裕な商人であった。その名が渡来帰化人秦氏一族の末裔で、族長秦河勝(はたかわかつ)なのである。
秦河勝は、聖徳太子より新羅から献上された弥勒菩薩半跏思惟像を賜り、太秦に蜂岡寺を建て(603年)、それを本尊として安置したのである。これが京都最古の寺院広隆寺となる。
広隆寺は、四天王寺、法隆寺等と共に聖徳太子建立の日本七大寺院の一つであり、弥勒菩薩半跏思惟像、阿弥陀如来坐像、十二神将像等、国宝重文が数十点あり、おびただしい仏像宝物を所蔵している歴史に名高い古寺である。
京都に住まい社寺巡りもしているが、恥ずかしながら、京都最古の寺院を大人になってから訪れたことがなかった。仁王門を横目に三条通を行き来するばかりであったが、やっと参詣の機会を持つことが叶った。
11月22日は聖徳太子の月命日である。広隆寺では、聖徳太子御火焚祭が行われる。紅葉狩りを兼ねた絶好の参詣日となる。
同日は年に唯一度 非公開の本堂上宮王院(じょうきゅうおういん)太子殿が一日公開され、黄櫨染(こうろぜん)の御袍(ごぼう)を纏(まと)った本尊、秘仏聖徳太子立像(1120年作)を見ることができる。
黄櫨染御袍は天皇が重要な儀式の際に着用する束帯装束で、天皇以外使用できない禁色とされていたものである。蝋燭の灯りだけの殿内は薄暗く、判別し難かったが、太陽のような黄土色に鳳凰の刺繍などが施されていた。
太子殿内には般若心経の読経が響き、積まれた経文が次々と開かれ、半時間の法要が厳かに執り行われていた。
同様に、4月、5月、10月、11月の日祝日しか拝観できない国宝桂宮院本堂も公開されていた。
単層桧皮(ひわだ)葺八柱造りの桂宮院は、別名八角円堂と呼ばれ、斑鳩宮の仏殿である夢殿を模して、1251年再建されたものである。
庫裏の庭紅葉を塀越しに眺め、林の中に細く奥まった参道を進むと、陽光が落ち照らしている一角が先に見える。更に進むと茂みが開かれていて、八角円堂は、竹林に囲まれた白砂の上にひっそりと佇んでいた。
法要の後、ほら貝を吹く山伏が先導し、上宮王院太子殿を後に薬師堂前に設けられた護摩壇のある斎場へ、僧侶の列が石畳を進み始めた。
いよいよ、聖徳太子御火焚祭の火入れである。
聖徳太子像に向かった祭壇には、護摩木が積み上げられ、その前には、斧、刀、弓矢が立てかけられた。
最初の山伏は斧を取り口上を唱え、場内を清め護摩壇の前で祈り、次なる山伏は刀を取り、同じく護摩壇の前で空を切り、文字を描き呪文を唱え、祈る。
最後の山伏は、祭壇の弓矢を手に取ると、縄張りされた結界の四隅の竹笹の方向に向かい、呪文口上とともに矢を放ち、最後の矢を護摩壇に積まれたヒバの山に放つ。
そして、紫の衣をつけた導師が祭壇の「願文」を取り、護摩壇前で読み上げる。
その声は広い境内一帯に響き渡り、一段と空気が引き締まった。
御火焚の種火が、祭壇のろうそくの神火から竹に刺した松に移され、円を描き護摩壇に差し込まれるや、斎場は煙一面に包まれ、薬師堂、講堂、地蔵堂など、どの甍も見えなくなってしまった。
その一瞬である。白く立ち込める煙の中に、赤い火柱が立ち上がった。
見る見るうちに煙は天空に流れ去り、青空が広がり甍が見えた。
護摩壇には、願い事の記された護摩木が次々と投げ込まれていく。
その火柱は、薬師堂の屋根の高さに挑む勢いである。
色づく紅葉と御火焚の炎の織り成す模様は、今も脳裏から離れず、これから毎年思い出す強烈なシーンとなるだろう。