織田信長を訪ねて 南蛮寺
現実主義的な信念で尾張の暴れん坊が西洋を理解した
呉服問屋の集まっている地域である。もっぱら昨今はマンションやガレージに様変わりしてはいるものの、室町新町界隈には多くの珍しもの好きの豪商や町衆が住んでいたためか、かつての隆盛を思わせる空気は残っている。
本能寺から抜け穴が掘られていたという歴史小説をも産んだ南蛮寺跡は、かつての本能寺から東400mの所にあるが、市街地化された今となっては知る術もない。
石碑は呉服問屋の敷地の中東南の隅にあった。蛸薬師通に面した東隣はマンションであるが、祇園祭には、天明の大火(1788年)で焼失して休み山になっている布袋山(ほていやま)が飾り祀られている鉾町である。
その向かいは、鉄筋コンクリート造で建て直された本門佛立宗誕生寺である。
「この附近 南蛮寺跡」と刻まれた石碑の横に、京都市の挙げた駒札がある。
そこには、次のように記されていた。
「織田信長の時代に、耶蘇会(やそかい/イエズス会)によって建てられ、京都におけるキリスト教と南蛮文化の中心となった「南蛮寺」は、この北側、姥柳町の辺りにあったといわれている。
戦国末期、京都でのキリスト教布教は、永禄二年(1559年)から本格化し、永禄四年(1561年)にこの付近に礼拝堂が設けられた。数々の迫害に遭いながらも、宣教師は布教に努め、信長の保護もあって信者は増加した。天正四年(1576年)、数百人の信者の協力と所司代村井貞勝の援助により、古くなった礼拝堂を再建され、七月十六日に献堂式のミサが行われた。これが南蛮寺で、信者の間では、珊太満利亜(さんたまりあ)上人の寺とも呼ばれた。
しかし、天正十五年(1587年)六月、九州征伐を終えた豊臣秀吉は宣教師追放令を発し、キリスト教の弾圧に転じた。南蛮寺もその時に破壊され、この地には復興されることはなかった。」と。
南蛮寺とは、信長建立のG・オルガンチノ神父が献堂した、京都における最初のキリスト教の天主堂なのである。
この場所からは、礎石やミサの様子を線刻した硯が発掘調査によって発見され、礎石は同志社大学今出川校舎の図書館の前に、硯は同志社大学京田辺校舎歴史資料館で保存され、見ることができる。
あらためて蛸薬師通を歩くと、本能寺と南蛮寺を繋ぐトンネルが存在したとする歴史小説が、全く信じられない仮説とは思えなくなってきた。炎上した本能寺から信長の遺骸の見つからなかった不思議や、阿弥陀寺の清玉上人が自害した信長を荼毘に伏したとする説の不思議も解ける気がするではないか。
さて、信長が最初に南蛮人に出会ったのは永禄12年(1569年)4月で、神父ルイス・フロイスである。その劇的な対面は、戦乱の中迫害を避けて流浪生活を送っていたフロイスを京都に呼び戻した時で、二条城の改築現場でのことだった。
翌元亀元年(1570年)、日本初のキリシタン大名大村純忠(1533〜87年)により長崎が開港され、翌年ポルトガル船が入港し南蛮貿易は推奨され、種子島銃を始め生糸、めがね、タバコ、薬品、かぼちゃ、スイカ、トウモロコシ、ジャガイモなども、この頃輸入されたものである。
その後の信長のカトリック布教への保護はキリシタン大名をも更に生み、全国の信者は、3万人から10万人にも急増していった。
日本スペイン交流史の権威である松田毅一教授によると、「信長は、1568年に入京して本能寺の変で倒れるまでの14年間に、少なくとも京都で15回、安土で12回、岐阜で4回、合計31回」もカトリック宣教師(切支丹伴天連)達に謁見しているという。
とうとう、天正8年(1580年)に信長は、願われたセミナリヨ(小神学/校司祭・修道士育成のための初等教育機関)の建築を許したうえ、安土城下の琵琶湖畔にその地を与えた。安土のセミナリヨは純和風建築三階建楼閣で茶室を備え、屋根瓦には安土城と同じ青い瓦が用いられる程、信長の庇護が窺われるものであったようだ。
信長は宣教師を安土城に招待して自らが料理の給仕をしたり、教会を訪ねては西洋音楽を聴くなどの好感傾倒ぶりだったという。その効用は貿易政策を成功させ、戦国の文明開化を進展させている。しかし、その動機や真意はどこにあったのだろうか。
単なる先進性や南蛮好みだった所為だけでは決してないはずである。
信長はキリスト教の布教を保護する反面、天台宗の比叡山焼き討ちや一向宗の一向一揆の殲滅、浄土真宗の石山本願寺焼き討ちなど、宗教弾圧とも誤解される戦を行っている。
また、神仏をも恐れず残虐を推し進める信長を無宗教の唯物論者と結論づける説もある。
しかし、それでは合点がいかない。
安土城築城において石仏を石材同様に使ってはいるが、安土城内に摠(総)見寺を建立していることや、焼き討ちや戦で仏教や仏教徒を殲滅しているわけではなく、禅宗は手厚い保護を受けているばかりか、炎上する本能寺から遺骸を埋葬したのは浄土宗の阿弥陀寺の僧侶である。
あるいは、比叡山は焼き討ちされたが天台宗は残り、石山本願寺も焼き討ちはされたが他の浄土真宗寺院は焼き討ちもなく浄土真宗も残り、改宗を余儀なくしている記録もない。
では、信長は何と戦い、何を殲滅し、何を求めていたのだろうか。
明らかに読み取れるのは、宗教を拒絶したのではなく、自らの目指す天下統一やその封建国家にとっての抵抗勢力を敵と看做し戦ったのであり、戦国の敵対する武将と同じ位置のものであったのだろう。
信長は「天下布武」を標榜していた。つまり、天下は武家政権を以って統治する。その政権の武将は自分であり、ゆくゆくはそれを王権とするところまでを夢見ていたのであろう。
南蛮の国を理解し吸収して得た答えに、きっと違いない。
朝廷と繋がり、僧兵を持ち、大荘園やその他利権を操る経済力を持ち、天台密教に専念することなく俗化と淫乱に腐敗する延暦寺、かつ、浅井長政、朝倉義景など信長包囲連合軍と連なる比叡山は、許せぬ存在の筈である。
信長にとって、比叡山の寺領を占領したにも関わらず、朝廷に寺領回復を求める綸旨を下させる比叡山延暦寺は政敵の最たるものに違いない。
一向一揆を操る石山本願寺も同様に、信長の武家国家を為すには、民衆を扇動する政敵となる。年貢を国家に納めさせず、国家と寺院とに分納させることなどを黙認していては封建国家は成り立たないからである。
今風にいえば、「信教の自由」は認めるが、「政教分離」は徹底して取り締まるとの政治信念を持っていたのであろう。
幼少から青年期まで奇矯な行動が多く、周囲から尾張の大うつけと称された暴れん坊の信長に、その見識、合理性、冷徹なまでもの知性、現実主義的な対応と夢追う構想力に気づいていた者はいたのだろうか。
当時の南蛮寺の建立は、それらすべての要件を備えた具体的政策のひとつという言い方ができるかもしれない。