織田信長を訪ねて 安土城址
城址より信長陵と呼ぶにふさわしい
「時に天正3年(1575年)、長篠の戦いで甲斐の武田勢を破った織田信長は、翌年、その天下統一事業を象徴するかのごとき巨城を、琵琶湖を臨む安土の地に建築することを決意した。設計及び現場の総棟梁として信長が見込んだ男こそ、今川義元との戦以来、十数年に渡って才気を評価してきた熱田の宮大工・岡部又右衛門であった。」
映画「火天の城」の前節である。
その安土城址の二の丸殿跡には、「織田信長公本廟」の石碑が建つと聞く。
御霊を祀り、追善供養するところであることには違いないのだが、これでは本廟が二箇所である。
信長公本廟とは、大正6年位階追陞(ついしょう/信長公を正一位に追贈する儀式)の為に宮内庁調査により、阿弥陀寺の信長公墓が廟所であると確認され勅使の来訪があったと聞かされているから、小生にとって、本廟は寺町通の阿弥陀寺とばかり思っていた。
しかし、本廟の石碑が建っているとなると気にかかって仕方がない。
いろいろと読み漁ったところを要約すると。
信長の最後の居城である安土城は、本能寺の変直後の天正10年6月15日に明智秀満勢の放火にて主郭部が全焼したが、「山崎の戦い」で明智光秀軍に勝利した秀吉は同月、信長の三男信孝と共に無事であった二の丸に入城した。
そして8月には城の修復を丹羽長秀に催促し、信長の本葬10月15日頃には完成させ、6月27日の清洲会議にて決定を見た通り、織田家を継がせた三法師(さんぼうし/長男信忠の嫡男1580〜1605年・後の秀信)が安土城に入城したのは同年12月となった。
また、秀吉は、信長の大徳寺本葬後の一周忌に間に合うよう、信長公廟として大徳寺総見院の建立を命ずるとともに、次には信長の太刀や烏帽子、垂直(ひただれ)などを納めた信長公御廟を安土城二の丸殿地に建立することを命じ、天正11年2月に建立させたのである。
信長が安土城築城の折に、城内に創建した摠(総)見寺に秀吉が菩提を弔わせる運びとし、信長の御廟に相応しいその場所に、三法師を迎えることが秀吉の大儀となったと思われる。
それから一年後に廃城となったことからすると、事は秀吉の天下取りの思惑の中に着々と進められていたのであろう。
こうなれば、時の権力者秀吉が定めた本廟のある安土城址に向かわねばなるまい。
名神高速竜王ICを下り国道8号線を北上、西生来町の信号を左折、案内表示に従い下豊浦を右折すると、間もなく安土城址前に着いた。京都東ICから1時間とかからないところである。
なるほど、京都を見据え、尾張、越前、伊勢など諸国を睨む要所で、いずれにも至近距離で街道も都合よく繋がっているあたりだ。
安土城址前の下街道(県道2号・朝鮮人街道)沿いには「安土城址」の石碑が建ち、琵琶湖国定公園内で国の特別史跡に指定されていた。
下街道を挟んで左手が駐車場、右手は昭和39年頃まで琵琶湖と繋がる安土内湖や伊達内湖のあったところで、水際の土手だったらしい。駐車場の辺りからは東西の虎口跡の石積みと大手道が見えるので、車から降りた場所は大手前広場だったことになる。
前方を見上げると、石段と石塁が安土山山頂に真っ直ぐに向かい、両脇石積みの上には木々の緑が鬱蒼と茂り、やがて石段は山肌の緑に姿を隠していた。
石段の道幅は8m程であろうか、その両脇は1m幅の石敷の排水溝を有している。
これは防御の大手道ではない、天下に鼓舞する大手道を持つ城山なのだ。
拝観の受付には「天下布武」「勝運握手」などの大きな木札が置かれていた。
信長創建の臨済宗妙心寺派遠景山摠(総)見寺の守護札で、その寺院は徳川家康邸跡地に、焼失した本堂に替わる仮本堂が設けられていると説明を受けた。
しかし、摠(総)見寺に現存する三重塔、二王門、金剛力士立像は創建当時のもので、420年余を超える姿の侭に安土山の中腹にあり、往時を偲ぶことができると聞く。
本丸からの帰路の順路にあり、本堂跡からきらめく西湖を眺めることができるところであるらしい。
さて、用意された杖を借受け、本丸までの405段の石段を登ることにする。
石段を上り始めて直ぐの左右に、羽柴秀吉、前田利家、徳川家康の伝屋敷跡が続く。
歴史上の超有名人が早々とこんなところに。天下人たろうとも信長の家臣であった時代があったのだと、あらためて頷くのである。
直線の大手道を登りきると道幅は狭くなり、今度は左に右にと曲がりながらの石段になっている。勾配は急である。途中腰を下ろして休む人がいる。軽く会釈を交わし、更に上る。
杖を頼りに下向き加減に上っていると、敷き詰められた石を眺めることになる。側溝の縁の石にところどころお賽銭が置かれているのに気づく。その石をよく見ると石仏である。
おびただしい石材のなかに石仏が使われていたのである。
神仏をも恐れずの信長と言われるが、築城の石材不足を補わせる為に、石仏をも単なる石材として集めさせていたことがわかる。黒金門を越したところに中世の数少ない仏足石が飾られていたが、崩れた石垣の中からでてきたものと説明板にあった。
いかにも信長らしい合理的な判断の表れである。
宣教師ルイス・フロイスの日本史の中に、「・・・良き理解力、明晰な判断力に優れ、神仏など偶像を軽視し、占いは一切信じない。名義上法華宗ということになっているが、宇宙の造主、霊魂の不滅、死後の世界などありはしないと明言している。・・・」と、こう記されていることに納得せざるを得なかった。
信長の信頼を得て代筆を行なっていた茶人武井夕庵邸を過ぎると、嫡男織田信忠邸があり、右手に更に上ると、左手茂みに織田信澄邸(信長の弟)、森蘭丸邸(信長の小姓)の石碑が見える。
そして、黒金門跡に着くと「此処は三百三十段目 天主跡まであと七十五段です」との木札が建っていてる。
このあたりの石垣の石は大きい、最大のもので3トンもあるらしい。いかように運搬したのか、耳をあてれば穴太衆らの声が聞こえてきそうである。
枡形に組まれた石垣を進むと、左手の長谷川邸跡には二男織田信雄を始めとする織田家四代の供養塔が並んでいた。天下統一を目前にして三年の月日をかけての築城を為し、たった三年居城し、信長亡き後三年で廃城となった安土城への織田一族の悔しくも篤い思いが感じられた。
いよいよ、御廟のある二の丸殿跡である。
秀吉によって作られた御廟は木々に包まれ静寂の中に佇んでいた。
その様は豊国廟のように圧倒させられるような威張りもなく、乱世を激しく生きた男が安らかに且つ凛として土に還されたようである。
信長の夢と野望を静かに眠らせる場所として最適のところである。
織田信長公本廟の石碑に拘っていたが、遺骨遺骸の有無に関わらず、信長を追善供養し、信長に近づき寄り添えるところだと納得させられた。
宣教師フロイスに信長はこう語っている。
「予がいる処では、汝等は他人の寵(ちょう)を得る必要がない。何故なら予が国王であり、内裏である」と。(.ルイズ・フロイス日本史)
また、安土城は「天主閣」であり、信長は「天守閣」とさせなかった。
天主閣跡に上り、水上に建てられた城山の風景を思い浮かべながら、信長の境地に浸ってみた。
「大和六十六州のど真ん中!!」と、信長の甲高い声が聞こえてきそうである。
安土山は安土城址であるが、これから小生は「信長陵」と呼ぶことに決めた。