京都の近代 山本覚馬
近代国家の礎は教育にあり
京都府の顧問を免職される2年前の明治8年、新島襄からキリスト教主義の学校建設の相談を受けた覚馬は、譲り受けていた薩摩藩邸地6000坪を襄に譲り、建設に反対の京都勢力の大合唱の中、槇村正直の首を縦に振らせ、同志社英学校の開校を実現させていた。
教育こそ近代日本の礎であるとの覚馬の信念が貫き通され、槇村が説得され、押し切られたと言うわけである。
その地には現在の同志社大学今出川校が建ち並んでいる。元は薩摩藩邸地であり、薩長同盟が結ばれた場所であり、戊辰戦争においては覚馬が幽閉されていたところで、明治体制の草案ともいえる「管見」を覚馬が記した地なのである。
まさに、新政府がつくった東の都東京に匹敵する近代化を、異なる方法でおこなった西の京都にとって、覚馬は近代京都の知恵袋であった。
ところが一転、覚馬は顧問を免職され、近代化をひた走る府政に関与する公職を失った。
槇村を擁護し京都の近代化にのみ邁進していた覚馬が、槇村を糾弾する立場になり、府政改革に動き出すのは免職から2年後の明治12年となった。
明治12年3月24日、第1回京都府会選挙が行われ、覚馬は出馬し上京区で51票を獲得して選出され、最初の府会議員の一人となった。
当初は議員定数を95人とされ、京都市内の2つの区、17の郡より各5人ずつを選出する規則が定められており、被選挙権も地租を高額に納めた者しか立候補はできなかった。
とはいえ議会政治の先駆を表わす出来事なのである。
この頃は中央政府といえど未だ議会政治にはなっておらず、「維新三傑(木戸孝允、西郷隆盛、大久保利通)」体制は終わりを告げ、薩長元老による官僚藩閥政権で政治が行われていた時代で、京都に送れて9年後の明治21年に地方自治制が実施され、帝国議会がやっと開催された時代だった。
当初の議会は京都中学校正堂で行われ、府会議員の投票による初代京都府会議長に覚馬は選出されるのである。
第二代京都府知事槇村正直と京都府会議長山本覚馬で始まった京都府会に、とうとう嵐が吹いた。
槇村は傲慢と恐れられるほどの強いリーダーシップで府政を牛耳り、京都の近代化に貢献してきた元長州藩士で、中央政界とも繋がりは強く、藩閥政治体制から脱却はしておらず、政治の私物化など真の民主主義には程遠かったようである。
また、それがその時代の常識であったのか、府会議員のほとんどはそれで良しとしていたようだ。
一方、覚馬は違った。
府民から選ばれた議員が府民の幸福のために行う府政であり、府民から選ばれたもので決して行くのが民主主義だと考えていたのである。
それが近代国家であると固く信じて疑っていなかった。そういう町づくり国づくりを考えていたのであろう。
翌明治13年、植村知事の地方税追徴事件を覚馬は糾弾したのである。
議会の決議を経ず、植村の独断で税金の追徴を決めたことに、知事の議会軽視と越権行為を追求したのだ。
一歩だに引く気配を見せない槇村と覚馬の果し合いのようであったことが容易に想像できる。いずれもが京都の復興を思い闘っていたのであるが、その闘う視点が違っていたのであろう。
覚馬は、その闘う姿を府会の議員に見せ、これが選出された府会議員の本分であり議会とはそういうものだということを教えたかったのに違いない。そして、市民にも知らせたかったのであろう。
官軍の権威を傘に着た高圧的な知事であろうが怯えることはないと。
府政とは府民が府民のために行うものだとの自覚を培養していたに違いない。
こんな話もあった。
府会が開かれその議決の際、漫然と議席に座り賛否何れにも投じない議員に、覚馬が退場を命じたと言うのだ。
まだまだ議会制度が十分に浸透していなかった時代に、議会のあるべき姿を示し、近代民主主義の道を啓蒙教示、種を撒いていたとしか考えられないのである。
東京中央政府が行なえていなかった議会政治を、先駆けて京都の地で行おうとしたのは、世界に覚馬の眼が向けられていたからであり、そういう視点で第二の故郷である京都の再興に心血を注いでいたのである。
翌明治14年、議長も議員をも辞職した覚馬は、事業家として、教育者としての道を歩むことになる。
同年1月、京都府知事は第三代となり、北垣国道が着任、勧業政策を推進継続し、槇村の強権的手法とは異なり、老練に府会府民を巻き込んでの政治となるのである。近代政治の一歩前進の11年間となった。
その間、北垣知事は京都博覧会の継続開催、琵琶湖疎水建設、京都商工会議所創設など数々の実績をあげるのである。勿論その蔭に覚馬の存在があったことは言うまでもない。
明治18年、覚馬は京都商工会議所初代会長高木文平に続き会長職に就任し、実業界でも名を馳せた。
その人脈は、経済人の高木文平、浜岡光哲、中村栄助らを引きつれ、明治17年同志社大学設立発起人の新島襄に連なり、覚馬は連署し、同志社校長代理となり、明治23年新島襄の死去に伴い、臨時総長に就任した。
その後も、近代京都の再興に生涯を費やし尽力した覚馬は、明治25年12月28日、享年64歳と11ヶ月で若王子に眠ったのである。
新政府に献策した覚馬の「管見」に次のように記されていた。
政体では天皇を中心とした三権分立の思想を述べ「権ヲ分カツ」とし、議会は二院制にすべきで、国体では世襲制の廃止、国民徴兵制、税金の平等な徴収を謳い、建国術では商工業を盛んにし、製鉄法では欧米諸国のように鉄文明を重視し富国強兵を実現すべきであると説いている。
その為には、なによりも教育が重要であるとも記されていた。
原文記しておこう。
学校
「我国ヲシテ外国ト並立文明ノ政事ニ至ラシムルハ方今ノ急務ナレバ、先ズ人材ヲ教育スベシ、
依テ京摂其外於津港学校ヲ設ケ、博覧強記ノ人ヲ置キ、無用ノ古書ヲ廃止シ、国家有用ノ書ヲ習慣セシムベシ、学種有四、其一建国術性法国論表記経済学等モ亦其中ナリ、万国公法ノ如キハ、其二修身成徳学、其三訴訟聴断、其四格物窮理其他海陸軍ニ付テノ学術ヲ教諭セシムベシ。」
女学
「国家ヲ治ムルハ人材ニヨルモノナレバ是ヲ育スルハ緊要ナリ。日本支那ハ婦人ニ学問ヲ教ヘズ、自今以後男子ト同ジク学バスベシ。
夫婦トモ精神ノ十分ノ智ヲ尽スモノナレバ其子親ニ優リ又其子モ親ニ優リ、追々俊傑ノ生ルハ其理也。童子ハ婦人ト関スルコト多ケレバ婦人賢ニシテ教ユルト愚此ヲ育ツルトハ其相違甚シ。
夫女ハ生質沈密ノ者ナレバ其性ニカナフ学術国体ニ関ハル者ヲ撰ビ教ユスベシ、且才女ハ猶ホ学バスベシ。」