京都の近代 覚馬と襄に八重
歴史を作る出会い、決別。
戊辰戦争で「賊軍」の汚名を蒙った会津藩の藩士山本覚馬が幽閉から解放され、大参事(知事)・河田佐久馬(元因幡鳥取藩)の下にある京都府の顧問に抜擢された明治3年(1870年)頃、新島襄はどうしていたのだろうか。
その頃といえば、蛤御門の変勃発の前月、元治元年(1864年)6月14日、国禁を破り函館から日本を脱出した満21才の新島襄が、密航先のアメリカにて10年間の遊学に勤しんでいる期間である。
慶応2年(1866年)12月アンドーヴァー神学校の協会で洗礼を受け、慶応3年フィリップス・アカデミーを卒業し、明治3年、日本人初の理学士としてアマースト大学を卒業した。丁度この年である。
その翌明治4年秋、覚馬は母佐久、妹八重らを京都に呼び寄せている。
ジャンヌダルクがごとくに新政府軍と闘った忠義の八重も、敗軍、賊軍の会津藩の一派となったのである。
囚われの身となり処刑されていても可笑しくはない身である。生き延びていても会津の民は瀕死の状況を余儀なくされ移民するものが続出していたと記録に残っている。
命をつなぎ、生き延びて入京できたのは、覚馬の力のほかないことは明らかであろう。
入京した八重は、洋式化に邁進する兄の影響か、西洋銃の代わりに、英語を学び、洋装、洋髪に変身し、近代女性に生まれ変わらんと懸命の日々を送っていたようだ。
襄と婚約することになるのは、八重の入京後4年、襄の帰国後1年足らずの頃である。勿論、ゆめゆめにも想像だにつかなかった事であろう。
その後明治5年、覚馬を顧問に槇村正直(元長州藩/第二代京都府知事)が開催した第1回京都博覧会の年に、襄はアメリカ訪問中の岩倉使節団と会い、その後も木戸孝允(元長州藩桂小五郎)付けの通訳として使節団に参加、欧州を歴訪し、翌年ベルリンで7ヶ月間滞在し、使節団の報告書となる『理事功程』を編集していたのである。
一方覚馬は、後に同志社創立に関わる宣教医ゴードンと、この時期に出会っているという。外国人宣教師の入京は制限されていたが、京都博覧会の開催中の見学を理由に短期間滞在することは可能であったらしい。
そのゴードンが、後に覚馬と襄を引き合わすのである。
明治6年、町角にあった布教禁止の立て看板は取り除かれ、とうとうキリスト教禁制が撤廃された。
しかし、神仏分離令や上知令などで勢力の弱体化を見ていた仏教界は、まさに内憂外患、禁制撤廃には過敏に反応せざるを得ず、京都においては邪悪なものとして退ける風潮が、まだまだ根強く残っていたようだ。
鹿鳴館時代がやって来るまでには、あと10年の歳月を要したのである。
明治7年、アンドーヴァー神学校を卒業し、同年10月、アメリカン・ボード海外伝道部の年次大会において、日本でのキリスト教主義大学の設立を訴え、5000ドルの寄付金を得た翌月、いよいよ襄は新生日本に帰国した。
同年11月横浜に入港し10年ぶりに祖国の土を踏んだ襄は、学校設立を目指し、大阪の宣教医ゴードンの家に寄宿する。
京都博覧会で知己となり、近代化を切望している覚馬が、ゴードンの引き合わせにより襄を知るには時間のかかることではなかった。
明治8年4月二人は出会った。盲目の覚馬は、新島の顔が見えないからこそ、それ以上に襄の心情を推し量れたはずである。また、その心情は覚馬が献策した教育方針とも符合し、二人の思いは引き合い急接近したものと考えてよいだろう。
近代日本の道は富国であり、富国には欧米の文明を移入するだけでなく、自由・自治・自立に目覚めた青年を育成する教育こそが要であることに共鳴一致したのである。
何をかいわんや、同志社英学校の仮開校は、襄が帰国して1年後の11月26日に叶ったのである。
また、襄と八重との婚約は前月の10月に、翌明治9年1月に結婚式を挙げている。
兄覚馬の思い通りに事が運んでいるとは考えすぎだろうか。
覚馬は京都府の顧問をする傍ら、自らが事業者として経営を始めていた。
それは、不動産事業や植林事業であったらしい。中でも桑苗販売は絹糸や絹織物などの殖産振興を考えてのことだったようだ。
経営は順調に運び地租を納めるほどの小地主となっていた。
片や京都府顧問としての功績は、財政を握る決定権者槇村知事をして京都舎密局(せいみきょく)を設置させることに始まり、欧州から多くの技術指導者を招聘したのである。
舎密局(現在の河原町御池附近)では、石けん、ガラス、陶磁器、清涼飲料水(レモネードやラムネ)などの製造を進め、女紅場を開校、製革場や養蚕場、染色場に織工場、伏見製鉄所などなど、急速な勢いにて府営で開設し、最先端の産業や技術を集積することにより、京都府政を先見性の基に導いたのである。
これらは、幽閉中に覚馬が新政府に献策した「管見」の中に謳ったものの実施に他ならなかった。そして、東京とは異なる方法で日本一の近代都市を実現しようと決意していたのであろう。故郷をなくし第二の故郷となる京都再興に心血を注ぐことこそ会津の武士道だったのかもしれない。
初代京都府知事長谷信篤(ながたにのぶあつ)は、慶応4年(1868年)4月から明治8年(1875年)7月まで任じていたが、明治4年に維新政府より長州藩の槇村正直を起用し、以降は槇村が事実上の府政を掌握していたといわれる。
その槇村は明治8年7月に京都府権知事となり、同10年に第二代知事となる。
ところが、槇村正直と山本覚馬の間にも、やがて不協和音が産まれだしたのか。
明治10年(1877年)、覚馬は槇村の手で京都府顧問を免職された。(続く)